さながら原発のようで・・
やきものは最終的には「焼きあがってナンボ」だから、とにかく焼成しなければ完結しない。
もっと言えば、ろくろが上手かろうが、形の美しいものを整形しようが、焼成が終わらなければそれらも単なる過程に過ぎない。
その焼き上げる過程が一番の難儀で、「土練り3年、ろくろ10年、焼き一生」とよく言われる箴言がある。
現代では焼成する窯も進歩しているから、少なくとも昔(例えば江戸期以前)ほど失敗する可能性は高くない。
むかしの職人たちは、コントロールの難しい薪の窯で現代のように温度計もない環境の中、
現代の技術をもってしても再現が困難なやきものを作った事実を思うと、ただただ無名の陶工たちに頭が下がる思いがする。
便利であることが逆に技術を向上させないということもあるのだろう。
さて私の陶芸だが、子供が新しいオモチャに夢中になるように、今は買ったばかりの電気窯に夢中になっている。
素焼きを終えて本焼きを待つ作品だけでも大小合わせて50ほどあったはずだが、それらを殆ど3日に空けず焼いている。
その結果の幾つかを先日公開したが、その後のものが以下になる。
まったく核燃料廃棄物のようでたまる一方だ。
核のゴミを処分する場所がないことはよく知られているが、私の作品も同じであまり引き取り手がない。
かといって自分が作ったものだから愛着はあるし、誰にでも差し上げるという気にもならない。
多少は愛着を示されないと、商売ではないから自分の手元に置いた方がましだと考えてしまう。
そしてどんどん溜まっていく。
『四面楚歌』さながら、「虞や虞や、汝を如何せん」と嘆いた項羽のような心境になるときもある。
おそらく今はプロ並みの焼成回数をこなしているが、
何故こんなにも夢中になるのか考えてみると、ストレス解消ということもあるようだ。
陶芸をしている時は少しだけ仕事のことが頭から離れるから、ストレス解消になっているのだろう。
まったく人は息をしているだけで金はかかるし、ストレスがたまっていく。
10日から薪窯を始める。
予定では12日の夕方位までの60時間を目途にしている。
寒くて疲れる3日間が始まるが、いいものが出来ればそんな苦労も吹き飛ぶのだが、
思うように窯の温度が上がらないと60時間も徒労に終わる。
人生も無駄とロスと失敗の別名のようなものだから堂々と受け入れるしかないけどね。
以下最近作の一部
いぶし黒の作品と柿釉の湯呑み