ジグソーパズルの一片

お知らせ

長い間、一人の人間の死は、ジグソーパズルの一片が紛失したパズル画のようなイメージを持っていた。

その人の生前の生き様によって、空隙の大きさは異なるものの、そこだけピースがないというイメージ。

適切なイメージかどうかは別にして、消えたピースの一片のように、いつだって人は一人で消えていく。

 

 

ただ人の死が生み出す空隙が、ジグソーパズルの一片の喪失と違うのは、

人の場合、例えばアメーバーが増殖するように周囲が動き、時間の経過とともに空隙を埋める、

というのが私が持つ死のイメージだった。

たぶん「他人の死」についてのイメージはこんなもので、今後もあまり変化はないと思う。

 

 

 

家族の死に対する感覚は少し違っている。

なかなか空隙の中心が埋まらないという思いがある。

イメージが現実と異なるというのは、私の認識力(想像力)の低さなのか、

それとも知人と家族の距離の違いなのか、よく判らない。

おそらく両方だろう。

 

 

 

人の死を思うと何故か『かくも長き不在』というフランス映画が思い浮かぶ。

50年以上前の映画。DVDで入手できるかどうか不明。

主人公が、ナチスに連れ去られた夫(再会時、記憶喪失となっている浮浪者)の記憶を戻そうと、

手を尽くすが浮浪者は突然逃げ出し、車にはねられる(死ぬ)というものだった。

主人公が夫(浮浪者)の死を知ったかどうかは不明。

 

 

主人公の最後のセリフ(記憶のままに)

「冬になれば寒くなる。ぬくもりが欲しくなるからきっと冬には戻る」

人は事実を知らないことで、希望を持てることもあるのだろう。

 

 

それにしても、フランス映画は地方では全く上映されない。

客の入りが見込めないからだろう。DVDですらあまり見ない。

だから、いまのフランス映画事情はあまり分からないが、

かつてあれほど深く人間の存在を描けたフランス映画は、今どうなっているのだろう。

 

 

アメリカ映画は大雑把でストレス解消にはいいが、ほとんどただそれだけ。

アメリカ映画が気に入らない理由の一つに、「原題」をそのままカタカナ書きにするというのもある。

まったくアメリカ映画は題名にも格調がない。

 

 

(自然釉花生)

写真HP更新用 086