原因と結果
世田谷区教育委員会主催の区内中学生によるジャズコンサートで、4か月間彼らを指導してきたトランぺッターの日野皓正が、
ドラムの中学生にビンタをした行為がマスコミに取り上げられ、「体罰」だとか「暴力」、「愛のむち」など批判が巻き起こった。
「教育委員会主催のイベントでビンタ行為は教育上好ましくない」等、なにを言いたいのか皆目わからないコメントもあった。
その後、マスコミが日野皓正にマイクを向け、「ビンタか」、「暴力ではないか」等と、
聞く側の立場、判断を全く明らかにしないまま無責任に聞いていた。
日野皓正も「頬に触れただけ」とか、「叩いていない」などと答えに窮し、「らしくない返答」をしていた。
映像を見る限りはビンタ以外の何物でもないが、ビンタという行為がマスコミの基準では<悪>らしく、
自分たちを「正しい批判者」の立場に据え、返答を求めていたように見えた。マスコミも時には気楽なものだ。
このビンタ批判に限らず、全体からある一部を取出し善悪を判断、批判することは簡単だが、当然表面的で底の浅い批判や見方になる。
日野皓正も「暴力」などと言うマスコミに、「そうした見方が文化の衰退になる」というような反論をしていたが、
多くの局はこの発言をカットしたようだ。
ジャズは音楽の中で最も民主的(平等)音楽だと言われるが、その理由はどんなステージでも必ず各パートに独演の場をもうけることにある。
ひとつのステージや曲の中でメインの楽器やプレイヤーが、他のメンバー(バイ・プレイヤー)にもソロ演奏を渡し、
パートが移っていく演奏形態がジャズの醍醐味と言ってもいい。
誰もが一度はステージでスポットライトを浴びる演奏形態がジャズで、ここが民主的音楽と言われる所以だろうが、
ビンタを食らった少年は、次のプレイヤーにプレイ(スポットライト)を渡す場面になってもドラムをたたき続け、
日野がスティックを取り上げて演奏を止め、それでも手でドラムをたたき続けたのでビンタをくれたようだ。
だいたい少年、少女と言われる時期は、頭の中で世の中すべてを理解しているつもりでいる。
この時期の特徴として、思考の硬さと自分だけを見つめる傾向が強く、社会的な人間関係の中で揉まれていないから身勝手で突拍子もない行動をとり、
まったく扱いにくい。
透明な殻に閉じこもって社会を見ているようで、殻越しに見える社会の知識は割合豊富だが、経験や失敗から学ぶ実践力が無く、
殻の中の認識が世界の全てと錯覚しているようだ。
少年、少女の自死報道に触れるたび、もっと別な方法があるだろうと私たちは思うが、彼らの小さな殻の中では死の現実的インパクトがなく、
ただ想念としての抽象的な死が自己完結するのかもしれない。
三島由紀夫が描く『午後の曳航』の少年像は小説では面白いが、現実の場面で付き合うには一番面倒臭い年代だ。
日野皓正はよく4か月も付き合ったものだと感心する。
マスコミによると少年はドラムの才能が素晴らしく、将来を嘱望されているようだが、
才能はあっても、ジャズの基本である演奏中に誰にでも(どの楽器にも)スポットを当てるというジャズメンのスピリッツが無かった。
ジャズのルーツはアフリカから奴隷としてアメリカに連れて来られ、家畜と全く同じように扱われた黒人たちが、
日々の重労働や悲しみを癒すため自然発生的に生まれた音楽だ。
誰もが一度は曲の中でメインになるというジャズの原点を失って、
才能の有るやつだけがスポットをあびる都会的音楽に堕したとしたら、ジャズの醍醐味などなくなる。
映像で見ると、少年は意識的にかどうか、自分の世界に沈潜し(この年代にはよくある姿だ)、
日野がスティックを取り上げても次に演奏を渡す気はなく、多分ビンタを張る以外、少年のエネルギー若しくは暴走を止める方法はなかったように見える。
したり顔のコメンテーターが、暴力はいけないとか、言葉で説得してなどと言っていたが、
あの時、あの場面で少年の暴走を止める方法は、羽交い絞めにしてステージから降ろすか、ビンタくらいしかないように思う。
憑かれたようにドラムをたたく少年を覚醒させる方法は、私の頭ではビンタ以外思いつかない。
あの場面での日野皓正のビンタがなぜ批判されるのか、まったく理解できない私は、自分に引き寄せてこの違和感を明らかにしたいと思う。
ひとの言動が、他者と身体的接触(例えば、ビンタ、殴る、蹴るなど)を誘発させる時、批判される対象はその身体的接触であって、
その行為を引き起こした原因(言葉や態度、行動)ではない、という判断がここ数年のうちに社会に定着した。
この事件に「昔だったら問題にならない」というコメントもあったが、むかし「是」とされたものがいまは「非」とされる社会の変化が、
どんな価値の変容によってもたらされたのか、誰もよく掴めていない。
少なくともこのことは教育という範疇の問題でなく、もっと大きな社会的価値の変容と捉えられるべきだろう。
「原因」が問われず、発生した「結果」だけを批判するという、時代の流れに釈然としない思いをずっと抱いてきたが、
「原因」の是非が、「結果」と同じ重さで問われないと、法律家がよく言う「叩かれたもの勝ち」になる。
むかし「処世術」として、「ケンカになった時、理由はどうあれどんなに腹が立っても決して手を出さず、
殴られた後で刑事事件にすれば何十倍もの仕返しができる」と教わったことがあるが、「叩かれたもの勝ち」とはそういうことだ。
法的に考えれば、「原因」よりも「結果」に対する責任が問われることになるのだが、ここが私には釈然としない。
人にとっては法も部分でしかなく、法を超えたところに私達の人生はあるのだから、法の基準よりももっと豊かな判断を見出したい。
余談だが、民進党の山尾という検事上りの政治家(要するにとても頭のいい人種)が、
年下の弁護士とW不倫をしていたと華々しくワイドショーで取り上げられているが、
ここで見るべきは、法に精通した人間であっても、ひとの情念は簡単に法の枠を超えるということだ。
歌の文句ではないが「判っちゃいるけど止められない」のがエリートから我々までの共通した人間性とも言える。
取りあえずあの時、あの場合のビンタを「是」とする理屈を考えてみると、
憑かれたように自分の演奏を続ける少年を止めないと、ビッグバンドの演奏全体が壊され、
かつ、スティックを取り上げてもドラムをたたくことをやめようとしない少年を止める意図で(つまり演奏を守るため)、
ビンタをはったのは、「正当防衛」になると考えてみる。
この理屈は少しは正当性を保持する気もするが、どうも自分自身が釈然としない。
ビンタは当事者(少年)が法に訴えれば「罪」を問われるが、逆に自分たちの演奏を壊されたと日野や他のメンバーが訴えても、
おそらく「罪」に問うのは難しいかもしれない。
釈然としないのは、法的な見方や自分の立ち位置を不問にした見方では本質を見失うと思うからだ。
だから、ビンタという「結果」のみを問うマスコミのモラルや判断基準には納得がいかない。
原因を無視して「結果」のみを取りだし批判する、罰するという現代の主流となった視点を個人的には転換したいと思う。
原因があって「結果」があれば、原因を批判せずに「結果」のみを批判してもまったく片手落ちで、全体を評価できないのは自明だが、
その先を思考するには、例えば「暴力」という実力行動はどのような場面でどのような範囲で許容されるのか、
それとも、「暴力」という行為は、どのような場面であっても否定されるべきなのか考える必要がある。
日野皓正が、少年に張ったビンタが「暴力」であり、その行為に少なからず「罪」があるとすれば、
そう思わない私としては、その根拠を掘り下げなければならない気がする。
そのことは、例えば「善人往生す いわんや悪人おや」という「善人よりも悪人が救済される」といった日本思想の極北にある、
「悪とは何か」という課題を、自分の言葉で考えなければならないことになる。
ひとが生み出す「悪」をその原因まで受け止め、悪人を救済するという宗教の「慈悲」が、殆ど消滅した宗教的退廃の時代に私たちは生きている。
つまり宗教家と言われる「知性」から殆ど学ぶことがない現代に生きているから、結局は自分の思考で前に進まなければならないと感じる。
日々職業的生活を繰り返すばかりで、立ち止まって自分の言葉で考えることが少ない私にはなかなか踏み込めないテーマだが・・。
まったく半端な文章になってしまったが、取りあえずアップするとしよう。
↓鉄釉砧 その3
色が気に入れば形が気に入らない。
首をもう少し細くし、あと2~3cm位伸ばせばよかった。
満足することはなかなかない。