よく判らない
ユーキャンが企業宣伝の目的で「流行語大賞」というイベントを行っている。
日々読み流すニュースのひとつとしてこの記事に接したが、今年流行った言葉(キャッチコピー?)を選ぶ催しらしい。
宣伝費としての<費用対効果>は判らないが、毎年結構話題になるから効果的宣伝として、目の付け所が上手いと思う。
今年選ばれた流行語の中に、「保育園落ちた日本死ね」という言葉から始まる子育て中の母親のブログの巻頭があった。
何かの折に全文を読んだが、
子供を保育園に預けて働くつもりでいた女性が、保育園に預かってもらえず、そのため働きにも出られない現実を怒ったもので、
「待機児童」の現状や「女性活躍社会」と言う、耳当たりの良い政策と現実とのギャップを批判した、どちらかというと小気味いい文章だった。
個人的には、この「日本」とは「選良」意識が強く、綺麗ごとばかり言う政治家や官僚を中心とした日本の「統治機構」を示していると思った。
文章自体、「政治的美辞麗句」と「現実的貧困」のギャップ(怒り)を市民の立場から話し言葉で表したものだが、
この巻頭が「流行語大賞」のひとつに選ばれてから、よく判らない批判や表出があった。
「日本死ね」という匿名のブログをネタに、政府の子育て政策を批判した民進党の議員が表彰(?)されたり、
タレントが、「死ね」という言葉はいい言葉ではないという感想をブログに書いたら、賛否両論が沸き起こったり。
こんなことはよくある現象のひとつだが、
その後「狂犬」百田尚樹が、「流行語大賞」の選者のひとり・俵万智に批判を加え、
さらにこの手の話題にすぐ飛びつくアホな軽輩が、俵万智のブログに対し「反日」的との投稿をしたようだ。
以上の流れは、私の場合、暇に任せてインターネットの記事を拾い読みした程度だからさほど詳しくはないが、
大方はこんなものだろう。
百田尚樹は、俵万智の事務所がいくつかの「反日」的な団体が入る場所(ビル)にあるから、
彼女が「日本死ね」を推したのかもしれないと書いている。
俵万智はユーキャンから選者に選ばれたのだから、選者の権利で何を選んでもいい(ユーキャンとの打ち合わせは当然あるだろうが)わけで、
他人がその判断の適否を当事者に言うことは全く余計なことだ。
「私はそうは思わない」「私ならこれを選ぶ」と考えれば(表明すれば)いいだけのことだが、
「狂犬」は選者の判断はあまり批判せず(狂犬は「土人」を推薦していたが)、
巧みに事務所の所在地から俵万智を「反日」的だとしてアホな読者を誘導している。
こういう「喧嘩の仕方」は卑怯極まりなく、子供の頃から私たちは狡い禁じ手と教えられてきたはずだが、
「狂犬」はそういった「喧嘩の作法」も知らず、バカを煽って味方にする「いじめの作法」しか身についていないようだ。
ブログが「反日」的だという投稿が増えたからか、
俵万智もそれに応え「私も死ねという言葉はいい言葉だとは思わない」とか、「日本を愛している」などとブログで返答をした。
「数は力」というが、多くのバカから圧力を受ける身も辛いと思うが、
言葉の深層に分け入って一握りの言葉や表現を紡ぎだす表現者・歌人にしては、「らしくない」返答をしたと思う。
例えば歌人が、「死ね」という言葉に対する言語表現の根幹にかかわる考察もせず、「いい言葉だとは思わない」と言うと、
私などは、たった36文字に自分の思いを仮託する歌人の言語観にがっかりしてしまう。
彼女はこうした「言語機能論」のような言語観で歌を詠んでいたのだろうか。
「死ね」がいい言葉であるかそうでないかは、言葉を単体で取り出してもまったく意味がない。
自分の意識の表出として選択された単語は、それ自体表現全体の構成要素のひとつだからそれだけ取り出しても機能的意味しかない。
俵万智のような言語観を成り立たせてしまうと、例えば「馬鹿」「アホ」「間抜け」「のろま」「依存症」「軽い」「エロ」等々
「いい言葉」ではないものが沢山あることになる。
そのうち「煙草」や「喫煙者」、「愛煙家」なども入ってしまうかもしれない。
言葉それ自体にいい言葉も悪い言葉もないが、「狂犬」がバカを煽ったやり方(表現全体)には表現者としての愚劣な政治的姿しかない。
それを見誤ると悪意ある表現や「言葉狩り」がますます力を持ってくる時代に扇動される気がする。
とまれ、「文学者」と区分される二人のこの問題に対する対応は、「文学者」の矜持を失くした姿だが、
世界一豊かな日本語の表現を毀損することは、文学者であれ誰であれすべきではない。
百田尚樹は、私から見ると権力におもねる番犬か太鼓持ちのような「作家」で、
この手の人物の特徴は、権力におもねる嗅覚が鋭く、
かつ自分の立ち位置(例えば、権力をバックにしているように相手に見せる)を狡猾にキープする、どうにも好きになれない男だ。
田舎政治家によくあるタイプの、地位をカサに役人を脅して自分を大物に仕立てたり、
ことさら過激な言葉や態度で他人を圧迫して自分の意見を押し通す輩と似ている。
論理的整合性のつかないことでも厚顔に強弁し、ある時は恫喝まがいに言葉を発するカッコ付の作家だが、
米国のトランプ同様、ひとの不満をかきたてて根拠のない論理に誘導するのが特技ともいえる。
「流行語大賞」の選者は6名いて、「日本死ね」を選んだのが俵万智かどうかは知らないが、
俵万智は彼女に対する批判に応え、この言葉はいわば「ハチの一刺しのように待機児童の問題を投げかけた」とか、
「反日」の批判に「日本を愛している」などと発言している。
何故弁解するのかよく判らない。
仕事として引き受け、仕事に真摯に取組み、仕事を納めたのだから誰にも批判される筋合いはなかろう。
なにより、「古今東西バカと交わって利口になったためしはない」から無視が一番なのだが・・。
これら一連の出来事は「劣化」が進む日本社会の在り様を如実に示していて気分が悪い。
選者6名が選んだ結果、「日本死ね」が選ばれたのであるならば(もしその選択がおかしいのであるならば)責任は6等分であるべきだ。
「狂犬」百田尚樹が6名のうちで俵万智を批判の相手に選んだのは、一番叩きやすい相手だったからだろうか。
「日本死ね」を選んだことが「反日」的になるという理由を誰も示さず、
ただ「反日」というレッテルを張る「名前を明かさない」投稿者に対し、<記名した表現者>は責任を持つ必要は全くない。
俵万智は煩わしさもあってか、馬鹿をスルーするためにか、「日本を愛している」などという文学者として曖昧すぎる表現をした。
(彼女に対して好意的に考えてだ)
何故顔を見せない批判者におもねるような表現をしたのか全く判らないばかりか、
私には表現者としての俵万智が自分で自分を毀損したように感じた。
彼女が高村光太郎の言う『馬鹿、自ら損なう者よ』でないことを願う。
『焼き肉とグラタンが好きという少女よ 私はあなたのおとうさんが好き』と「不倫」という愛の姿のひとつを、
与謝野晶子の『柔肌の熱き血潮に触れもみで 寂しからずや道を説く君』の名句にせまる密度で詠んだ歌人に、
数を圧力にして「日本を愛している」などと言う陳腐な言葉を吐かせるべきではない。
余談だが、
道路工事を施工していると匿名の文句電話がよく掛かって来る。
名前を名乗る苦情者は殆どなく、やれ「渋滞で待ち時間が長い」とか、「迂回路が遠い」とか、
「規制の仕方が悪い」など、昨日と違う交通事情に我慢できないのか、
それとも姿が見えないことで優位だとでも思うのか、電話口で怒鳴り散らす輩がいる。
私は「匿名電話に応対するつもりは無い」と答えている。
苦情を言った相手に、私が仕返しをする訳でもないから名を名乗ってくれと言うが殆ど名乗らない。
こちらに非のある場合は当然反省し、すぐ改善・対応するつもりがあるから、せめて穏やかに話したいと思うのだが、たいてい怒鳴り散らすばかりだ。
今まで両側通行だった道路を片側規制して工事をやれば、当然半分の交通量しか捌けないのは子供でも分かると思うのだが・・。
我慢できない人間が多くなったことはよく判る。
もう一つ。
道路工事の現場には、その前後も含め必ず「徐行」の看板を多く設置する。
徐行とは「ただちに停止できる速度」のことで、交通規制の際に通過車両などの安全確保のため警察と協議して設置するのだが、
「徐行」の看板を100枚設置しても誰も徐行はしない。
「段差あり」を表示しても徐行もせずに飛ばしてきて、あげく車の腹を擦ったなどと苦情をいう(大抵がシャコタン)輩がいる。
格別難しい運転や特別な配慮を要求している訳でもなく、せめて少しの注意を払って運転してもらいたいと願うが、
シャコタンの腹擦りが「自己責任」だと考える運転手は皆無に等しい。
なんでも他人のせいにしたがる人間が増えていることもよく判る。
↓一輪挿しとしてはちょうどいい大きさだが、
この色ではまだまだだ。
「乾いた茶色」は特に難しい。
仕方がないから休みになったら別な釉薬を掛けてみようと思う。