たまには仕事の話(評価について)
平成27年度の工事施工業者に対する、発注者の評価が公表される時期になった。
例年優良業者に対し表彰が行われるのが今月だが、私の会社は今回県庁と沼津土木事務所、沼津市のトリプル表彰にノミネートされた。
表彰決定の連絡があったのは今日現在、県庁と沼津市の2か所からで、沼津土木事務所についてはノミネート連絡があったがまだ決定ではない。
3か所の表彰が実現すれば野球でいう3冠王になるが、何事も「下駄を履くまで」分からない。
土木技術者にとって、苦労した現場が表彰という形で報われるのは非常にうれしいようで、私の会社は県や市から過去表彰されているが、
うれしいことは何度あっても良いもので、現場を担う技術者にとっては励みになっている。
社長という立場からすると、利益の出なかった現場の表彰は複雑な思いもするが、
請負業というのはいつも儲かる訳でもないから素直に喜ぶことにしている。
さて、
正当に評価されるということは誰にとっても大きな糧になるが、人生なかなか思うようにはいかない。
私のように偏狭で傲慢な人間は、例えば魯山人のように「世の中、目明きはそれほどいない」と何かにつけ、評価する側を見下してしまうことがあるが、
やきものの世界を長く見ていると、なぜこの作家がこんなに評価が低いのだろうと思うことがしばしばある。
一般的に言えば評価する側の目が曇っているとしか思えないのだが、それが世の中といえば首肯せざるを得ない。
私たちは評価する側に身を置く際、いつも「客観的」視点で対象を見ようとするが、
どうしても個人が長年培った基準や美意識と無縁ではいられない。
かといって「客観的」基準に照らし合わせて評価しようとする場合、評価基準や規格値が明確な建設工事などは可能だが、
芸術という分野で「客観的」に<美>を評価しようとすると、新しい才能や実験的表現を排除してしまうことがある。
評価する側の美意識の幅を無限に広げる努力と、未知なるものへの寛容さを常に養わない限り、
変化の激しい現代の本質的な<美>の評価は出来ないと思った方がいいだろう。
やきものの世界に携わる学者や評論家、出版関係者などを見ていると、
歴史的若しくは巷間評価の確立した作家や作品に対して「屋上屋」を重ねるような批評や、
奇をてらった作品を過大評価する傾向が感じられ、どうも彼らが閉じられた世界に定住しているようで、その視点に面白みがない。
インテリという人種は論理的に<美>を分析することは長じているが、<美>を具体性として伝える力が不足しているようだ。
もちろん論理的な批評を否定するものではないが、専門誌などが前衛的な陶芸を過剰に扱う様を見ていると、
「その作品は5年後生きているか?成長する兆候が見える作家か?眼を開いてよく見たらどうだ」と半畳を入れてしまう。
何故彼らの視点に面白みがないのか?
思うに彼らは「善意」の傍観者で、本来無くても生きていける芸術作品を身銭を切ってあまり贖わないからではないだろうか?
愛陶家がやきものを求める際、限りある予算の中で悩み、葛藤して一つの作品を求めるのだが、
大抵の場合安くても1ヶ月分の小遣い、高い場合は数か月分の月収になる時がある。
無くても生きていける物を買うという行為は、いかにも人間的でそれゆえ真剣にならざるを得ないのだが、
その立場から見ると「善意」の傍観者の「善意」ぶりはよく見えるのだが、
買うという行為の喜怒哀楽がその批評から感じられない分、面白みに欠ける気がする。
以前、中島誠之助が「骨董屋は国宝にでも値段を付ける」と言ったことがる。
美術評論家などは下品な物言いと捉えたかもしれないが、私は骨董屋という仕事に対する矜持だと感じた。
美を商って糧道とする人間が、国宝の持つ価値を「価格」として提示できないとしたら能力がないと言っても過言でない。
評論家にとっては国宝や重文の名を冠する<美>は、研究、鑑賞、論評の対象でこそあれ、金に換算すべきものでないと考えることは想像に難くない。
しかし社会という混濁した場から生まれた芸術の価値を、社会から隔絶したところに祭り上げても<美>をただ特権化するに過ぎないだろう。
先日、知人が館長を務める美術館を訪問した際、館蔵の絵画を2度ほど『なんでも鑑定団』に出品し、
当然本物だから億単位の評価が付いたと言っていた。
来館者の中にはその番組を見た人もあり、その人たちはことさらその2点の絵画に関心を集中するそうだ。
価格の多少によって美術品の見方が変わるという見方は、決して上品とは言えないかもしれないが判り易くていいという面は否定できない。
5万円の茶碗と1000万円の茶碗は当然、それぞれが持つ<美>の力の違いがあるから価格の差があるのだが、
その違いを見極めるきっかけとして、値段の窓から見る方法もあっていいだろう。
むかし京都の骨董街で食事をしたとき食堂の親父が面白いことを言った。
旅行の目的を問われたので「骨董品が好きだから目の保養に来た」と返答したところ、
「京都では、セットウ(窃盗)、ゴウトウ(強盗)、コットウ(骨董)というンでっせ」と教えてくれた。
うまい語呂合わせだと思ったが、有名な寺社が多い京都では、骨董屋が暗躍して寺の住職をだまし宝物を横流しさせるそうだ。
事実かどうか知らないが、以前は雅な京都で骨董屋は卑しい職業とみられていたようだ。
まあ、結構怪しげな人間が多い業界ではあるが。
↓筒花生
還元徐冷(還元戻し)をしてみたくて薪窯の作品を電気でやってみた。
赤土(茶色い土)が黒泥のようになったが、どう評価したものやら・・。