人間の劣化
「文明が進歩するほど人間(性)は劣化する」という趣旨の文章を読んだ記憶がある。
昨夜の献立も忘れるほど記憶力が減退しているが、この表現は『思想のアンソロジー』という本の中にあって、
江戸時代の僧侶の言葉だったと記憶している。
鋭い見識だと思うから原文くらい記憶しておこうと暫くして件の本をめくってみたが、原文には行き当たらなかった。
本と著者が違うのかもしれない。
私の読書は睡眠薬代わりだから、情けないがいつもこんなものだ。
原文の格調ある表現も教養として身に付けたいが、本旨が身に付けばいいというズサンな性格だから、
名文に出会ってもその後の再会が困難だ。
加えて本に折り目を付けたり、傍線を引く、ノートにメモをする等々を横着だからあまりせず、後で心に残った表現を探すのにえらく手間取る。
いまのところ再会できない文章はこれだけだが、そのうちもっと増えていくと思っている。
さて、
私個人の60数年を振り返ってみても「文明の進歩」という変化は、その質と速度において驚愕する様相を呈している。
かつて30代の私が夢想した「文明の進歩」が、現在ほど進歩しているとは想像の埒外だ。
あまりにも急激な進歩だから、私の年齢になると「時代に付いていく」のがひどく難しい場面が多くなるが、
商売さえしていなければ、ことさら時代に付いていく必要もあまりないとも思う。
その意味でもリタイヤは待ち遠しい。
たった60数年の人生においてさえ、社会や人の変化を深く実感するほど「文明の進歩」はスピードが速いが、
社会の出来事に目を向けると、冒頭の言葉通り、例えば私の30代頃の社会よりも「人間の劣化」を感じてしまう。
日本人の人間性が、30年ほど前と比較しても劣化したと思うのは私だけだろうか?
年寄りの口癖のように時代の変化に愚痴や異議を唱えるつもりは全くないが・・。
「文明の進歩」という定義は、極言すれば「生きること」の利便性向上という点に集約されると思うが、
「人間の劣化」ということが、例えば何を示すのかこの頃考えている。
生活の利便性向上の要因は、例えばインターネットの普及に<象徴>させることが出来るだろうが、
生きることが便利になるほど、私たちの何が劣化する(した)と考えればいいのだろう。
進歩と劣化の関係を解き明かすことが出来れば、もう少し時代の姿が掴めると思うのだが。
「劣化」について個人的な感覚から言えば、言葉の軽さがすさまじい速度で進行していると思っている。
言葉の持続力(一定程度の時間の長さを生き続ける表現や認識、価値、理念等々)が極端に短い。
当然、言葉(意識)をモチーフとした文学も驚くほど短命で、
それが理由でもないだろうが、現代文学は今の私には感動が少なく再読する気もあまり起こらなし、
一冊の本を読み終えるのにえらく苦労する。
おそらく私の感性が時代のそれから逸れはじめているのだろう。
「サブカルチャー」という文化の波に時代の本質があるとは思うが、波に乗る気のない(乗れない)人間には、
情けないが、時代の貌さえ見えなくなっているのが現実だ。
文章を書くという行為が、「手書き」から「キーボードの打ち込み」に変わってから文学が大きく変質した、という作家の言があったが、
この認識は「手書き」という行為から離れて久しい私にもよく首肯できる認識だ。
今の文学に面白みや深みを感じないのは、文字を表すという「技術」が進歩したが故の劣化が文学にもあるからだろうか。
「キーボードの打ち込み」が紡ぎだす意識(表現)は、
手っ取り早い分だけ、意識の核心から少し外れた表層をなぞっているような思いがいつも付きまとう。
言葉の軽さのいい例が「流行語大賞」というイベントで選ばれる言葉だ。
発表されたその時は思い当たるものもあるが、年を越せばもう消えているし、聞いたことすらない言葉もある。
言葉が消耗品として消化される現代は、特定の地域(総じて後進的な国家や社会)における宗教的言語(例えばイスラム教の教義)は別だが、
消費資本主義の高次化が進む先進国の社会においては、神や仏の言葉すら消費の対象になってしまっている気さえする。
ネットに氾濫する言葉にも持続力がなく、吉本言語論の概念を借りれば、
「指示表出」的言語だけが氾濫し、社会的な価値観や建前に合わない言葉(自己表出)を吐いた時、
恐ろしいほどのバッシングが氾濫している。
自分の姿を隠して言いたいことを言う言語を、しかし黙殺もできない社会にあって、
社会の病理が進行するのと同じ速度で、言葉が狂気(凶器)化していくのかもしれない。
現代は「詩人」という位置(役割)が成立しづらい社会かとも思う。
言葉が浮遊する時代は、私たちの人間性も浮遊を繰り返すからだろう。
おそらくこれからますますこの傾向は続くのだろうが、私たちの未来がどこに到達するのか、
誰もその像を描く思想や理念を持ち合わせてはいない。
<信>に足る理念のない時代を私たちは生きなければならない。
口当たりの良い言葉が、生の現実から浮き上がった世界や認識に誘導する状況が進行している。
様々の現象の裏にある本質を見極めるには、まず自らの言葉で生の現実と対峙しなければならないと思うが、
さしあたり「人間(性)の劣化」が何を指すのか、ノスタルジーに浸ることなく、
少しでも自分の言葉で目の前の複雑な状況を掘り下げたいと思う。
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今年の正月は風邪で体調不良の中、薪窯を断念し、電気窯を焼成をしたが結果は全滅。
3回焼いたが、還元が強すぎたようで期待した作品がすべてブクった。
還元が強ければその分だけ発色も良かろうという大いなる浅知恵が招いた結果だ。
ガス圧を10%上げたら全滅とは!まさにトホホだ。
15以上の作品がブクり、ひとつだけ採れたのがこの花瓶。
「還元が強すぎるとブクる」ということを学ぶのにも、これだけの回り道と莫大なロス。
自己流陶芸の典型的な失敗。
「オモイテマナバザレバ、スナハチアヤウシ」まったく私のことだ。