子の<罪>は親の<罪>か?

お知らせ

私の会社は、例年の売上の97%ほどを「元請」として受注し、民間工事もあるが大部分は公共工事になる。

建設業界においては、公共工事、民間工事を問わず「元請責任」の在り様が「建設業法」で厳しく定められ、

元請工事においては、一次下請けや二次下請け(いわゆる孫請け)が起こした施工不良や第三者を巻き込んだ事故、

現場で発生した労働災害など、すべての「異常事態」は「元請」がその責を負うことになっている。

 

 

だから、「元請」の立場は一瞬たりとも気が抜けないし、何より「異常事態」が発生してしまった場合、

原因者が元請、下請けに全く関係なく、その責任と補償は「元請」がしなければならないから「元請」独特の厳しさ、辛さもある。

下請けの場合は予算的には厳しいが、責任が軽い分だけ精神的には楽というのが実態だ。

こんなことは建設業界の当たり前の常識だが、「横浜市のマンション傾斜事件」の関係者の一連の動きはどうも私の「常識」と違っていて、

関係者を謝罪会見の場で追及するマスコミの責任の捉え方にも違和感を禁じ得ない。

 

 

マスコミの報道は、旭化成の子会社である旭化成建材に批判の矢が集中している。

もちろん杭工事において直接不正(手抜き)をした企業だから批判を免れるものではないし、

直接の原因者だからその<罪>は一番重いだろう。

だが、この会社はいわゆる「孫請け」で、元請である三井住友建設、一次下請けである日立テクノロジーズの順に

責任と批判を課せられるべきだが、元請の三井住友建設がマスコミを通じて謝罪会見をしたのは事件発覚後1ヶ月経ってからで、

マスコミも旭化成や旭化成建材ほど厳しく元請を追及しているようには見えない。

1ヶ月の間、私が知る限りは三井住友建設の社長にマスコミがマイクを突き付ける様子は放映されなかったと思う。

「罪の重さ」と「責任の重さ」は違うはずだが、そのあたりの冷静な区別はなされてはいないようだ。

 

 

売主である三井不動産レジデンシャルは、当然買主の住民に一番の責任があり、

施主の立場に立てば仕事を頼んだ三井住友建設に損害賠償を求める権利がある。

三井住友建設は元請として不正工事を見抜けなかった、若しくは杭工事を管理できず不良品を引き渡したという瑕疵があるから

売主(施主)と住民には筆頭の責任があるが、なぜかマスコミはこれらの企業を旭化成ほどには追及していない。

 

 

加えて、一次下請けである日立ハイテクノロジーズはなぜかその責任が殆ど追及されず、この企業を飛ばして「孫請」に責任追及が行くのは、

罪の重さと責任の所在を分離できない追求に見える。

重要な一次下請けである日立ハイテクノロジーズが、この工事でどのような役割(仕事)を契約したのか知らないが、

この企業はお詫びの会見すらしなかったのではなかろうか。

この会社が地方の建設業界にも残っていない、金を通過させるだけの「中間搾取」を演じたとしたら当然建設業法違反になるはずだが・・。

 

 

もっと大きな違和感は、旭化成建材は旭化成グループの構成会社(子会社)であるが、法的にまったく別の独立した法人であるから、

親会社の旭化成の社長が直接責任を追及される立場にはないと私は考える。

旭化成と旭化成建材は当然密接な関係にはあるが、別の独立した法人だから親会社とはいえ直接責任はないはずだ。

何故旭化成の社長が謝罪会見に引っ張り出されるのか、私には到底理解できない。

一連のマスコミの報道は、成人した子の罪をその親にも求めるようで、大げさに言えばこの社会(またはマスコミという世界)の未成熟さを

露呈したのではないかといささかうんざりした。

責任の多寡に応じてその順で責任を求めるべきで、本丸(元請)を横目に見てのマスコミの旭化成叩きは的を外した横暴な行為に見える。

旭化成が大財閥の三井や日立に比べて叩きやすいからとは思いたくないが・・。

 

 

社会全体がヒステリックな雰囲気に覆われて久しい。

犯罪を犯した人の身内が、あったこともない他人から電話や手紙、メールなどで指弾されるという話を耳にするが、

そうした行為が「正義」や「義憤」と錯覚される社会は決して健康な状態ではなかろう。

大人が犯した罪について、その親や兄弟にマイクを向けるマスコミの在り様は、『報道の自由』の旗を掲げようとも権力の恣意的乱用でしかない。

一人の罪が「一族郎党」に累を及ぼす、というような愚行がまかり通る時代はとうに終わったはずだ。

マスコミにとっては犯罪者の近隣住民のコメントよりも、身内のコメントの方が美味しいのだろうが、

こうした彼らの行為が、近代社会が長い時間と多くの悲劇の果てに獲得した「個」の自立を毀損しているのだ。

 

 

 

子供の時分から教師によく叱られ、教師の勘違いで失神するほど叩かれたりした経験のある私は、

自分が何かの拍子に罪を犯してしまう、または罪人の立場に立たされるのではないかという認識や恐れをいつも持っていた。

長じて多少の読書体験や人生経験から、人は向こうから来る<切っ掛け>で罪を犯すこともあるという認識を持っているので

声高に正義を叫んだり、正義という「仮構の立場」を疑いもせず人を指弾する人間が好きになれない。

この一連の騒動を見ていると、そうは思いたくないが、三井、日立という日本を代表する経済力と人脈に巻かれる(長いものには・・というやつ)

マスコミの姿を見たようで、彼らへの不信が深まるばかりだった。

 

 

 

自分をもっともっと見つめてごらん。

きみの掲げる正義の旗は襤褸の旗だ。

借り物の旗は、君の正義を保証はしない。

そして、きみが責めている彼は明日のきみかもしれない。

「旗」

 

 

↓前回倒壊した薪窯の最後の生き残り。

右側の緋色(微かに赤い部分)を求めて焚くのだが、なかなかこの色が出ない。

この色は酸化の炎が長時間当たらないと出ないのだが、

今回倒壊した窯から久しぶりに出た緋色。

失敗した窯からとはまったくの皮肉だ。

もう少し長く焼成していたらもっと鮮やかだったかもしれない等と

今更ながら「皮算用」をしたりする。

 

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