顔もしくは面構え
「40歳過ぎた人間の顔は自分の責任」と言ったのは、リンカーンだと思う。
持って生まれた容姿の良し悪しは親の責任だろうが、それとて人生の半分40歳まで。
40年をどう過ごしたかによって、その後の顔や表情に知性や意志の強さ、優しさなどが醸し出され、
親からもらった顔から自分が歳月をかけて作り上げた自分の顔になるという事だろう。
顔を作るために生きているのではないが。
もちろん逆もある。若い頃の美男、美女が年老いて卑しい顔になっていたり、ズルいおばちゃん顔になっていたりだ。
ゲーノー界にはこの手の例が結構多いが、人の表情や顔付は環境や生き方でいくらでも変化もするから不思議だ。
「あの人は今」風の番組をたまに放映するが、子供の頃から卑しい覗き趣味があるからか、
一世を風靡した人のクスンダ姿を見たいからか、美女は美女のままかなど、いい趣味ではないと思うが結構番組を見てしまう。
60過ぎまでわが身に卑しさが残っているとは情けないが・・。
環境や生き方によるひとの顔や表情のゆっくりとした変化は、例えて言えばウィスキー。
「樽」という「世間」の中でじっくり熟成し自分の味になる。
よくウィスキーは「風雪に耐えて」と宣伝文句に言われるが、ひとも困難に耐えた人ほどいい顔になるのだろう。
化粧品の宣伝で「女は40(50?)から輝く」とかいう文句があったが、
女に限らずこの文句はあながち的外れではないかもしれない。
ひとは職業的時間の中で過ごすことが多い分、仕事(その人間関係)に対してどう向き合って来たかが結構「顔」を決定する、
と個人的には思っている。
「職人」と呼ばれる人たちは、なぜみんないい顔をしているのだろう。
私が尊敬する陶芸家でも、芸術家肌と言われる人たちよりも職人肌と言われる人たちの方が顔に味わいがある。
また陶芸家に限らず、ひとつの分野で長い間研鑽と工夫を重ねてものを作ってきた人はみないい顔をしている。
このことは世界共通だが、うまく理由が分からない。
10代で弟子入りをし、70過ぎまでもの作り一筋という職人の姿をTVなどで見かけるが、みな口下手でいい顔をしている。
腕を磨くという事は人間を磨くことになるのだろう。
以前、詩人の吉本隆明が「坊さんはみんな坊さんの顔をしている」という、職業が醸し出す顔のニュアンスを語っていた。
それ以来、坊さんの顔を注意して見ていると何となく得心した。
職業が作る顔若しくは表情というものがあるのかもしれない。
マル暴の刑事の顔つき、目つき(加えて服装、言葉も)が暴力団とそっくりだというが、これは結構当たっている。
かつて大宅壮一が「男の貌は履歴書」と名言を吐いたが、彼一流の認識であろう。
明治以降活躍したひとの顔を見ると、誰もが個性的で自信や使命感にあふれた顔をしている。
激動の時代に背中を押されるように表舞台に登場し、役割を演じた人々はみな、
現代から比べると非常に若いが、誰もが成熟した顔をしているのはなぜだろう。
現代より短い一生を凝縮して生きた分、彼らの顔は完成しているのだろうか。
60過ぎて今更「顔」の話でもあるまいが、この件を出したのは自民党の武藤貴也衆議院議員について一言あるから。
新安保法案に反対する若者に対し「利己的」と言ってニュースになった人物。
「政治的理念や思想は、たとえそれが普遍性を持っていても現実の利害の場では必ず<党派性>を持つ」。
だから反対の立場に立てば相手が「利己的」になるという「政治の本質」、「政治のパラドクス」を知らない政治家のことだ。
それまでこの政治家は知らなかった。
ニュースを見て驚いたのは、彼の理論の浅薄さもさることながら彼の顔から見えた幼児性だった。
「豊かな社会ほど人の成熟を遅くする」と個人的には思うが、それにしてもこの政治家は36歳の大人の顔をしていない。
豊かな日本の36歳の政治家の顔が幼児的であるのは、彼の生きて来た時間(社会)に原因があるのだろう。
少なくとも私は彼のような「面構え」の青年に何かを託すつもりはない。
親からもらった顔に幼児性があろうが、政治という世界で生きていれば(この政治家は2期目らしい)その責任から顔つきも厳しくなると思うのだが、
学業の優秀さや育ちの良さ、豊かな環境で培った幼児性(結構傲慢さが垣間見えたのは、代議士として2期持ち上げられ続けたのだろう)が露出し、
これが国家の政治に関わる者の顔かと、世襲議員に見られる顔付にも似ていてうんざりした。
例えば、中国の政治家の「面構え」と比較するまでもなかろう。
「顔を洗って出直しな」とはこうした政治家に向ける言葉かもしれない。
私の考えは偏っているだろうか?
「人相見」ではないから客観的な根拠のない独断だが確信はある。
おそらく、私と似たような年齢の何人かは「ずいぶん子供のままの顔で大丈夫かな」と考えたのではないか。
どこかでひとの顔はその生き方を表すものだ。
片岡珠子が晩年打ち込んだ『面構え』というシリーズの絵がある。
歴史上の人物(足利将軍や北斎、写楽、広重など)の生涯に思いを寄せ、彼女のフィルターを通して現代に甦らせて描いた人物画だ。
歴史的絵画として残されている人物像から彼らの人間性を読み取り、それを自分の共感や美意識で描きなおし、
まったく新しい歴史上の人物画として描いた珠子の、人の心の奥底まで見通すような鋭いまなざしが、
今のお坊ちゃま政治家たちの顔を見たらなんと言うだろう。
ひとの面構えはやはりその人の履歴書なのだろう。
ひとを批判するのにその顔付をもって為すというのは、主観以外の何物でもないだろう。
かの若き政治家も実像は異なるかもしれない。
だが、「面構え」が内なる精神を示すからこそ、画家も評論家も顔に拘ったのだ。
自然釉石咬み壺 (陶芸を始めたころ「ひも作り」で簡単にこのような大物が作れた。今では体力も集中力も減ったから作れるだろうか?)