料理と器

お知らせ

好きなやきもの(の種類)となると「すべて」になる。

一応は「青瓷」が筆頭になるが、民芸陶器から色絵磁器(白磁、青白磁を含む)まで嫌いなものがない。

人間の好き嫌いは激しく、好きな人は殆ど向こうにいてこちらにはウマの合わない奴が多いが、

やきものだけは、嫌いなやきものというものが全くない。

了見の狭いところは育ちのせいで仕方がないが、やきものに関しては海より広い寛容がある。

 

 

 

地方の名も無いやきものであっても、作り手の腕の良し悪しや工夫の在り様はとても気になるが、

いい加減な作りのものでなければ長所を探そうといつも好意的になる。

地方の温泉場には、「温泉陶芸家」という「温泉芸者」と同じように少し軽んじられて言われる自称「陶芸家」がいて、

土産物屋の片隅でカップや湯のみを売っていることがよくある。

私がやきもの好きになったきっかけは、旅先の「温泉陶芸家」のカップを求めてからだから、

たとえ無名であっても求めてやりたいと思うが、競争のない地のやきものはいいものが少ない。

けっこういい値も付いているから、売れれば食って行く位は出来そうだが、その生き方に安住してしまうのか、

値段に見合うほどの向上心が見えない。

 

 

以前、九州に行った際、土産に買うものがなかったので「小鹿田焼」の器を数枚買った。

それまで「民芸」のやきものについては、いわゆる作家物と比べて個性や芸術性、現代性において劣るという思いがあり、

かつ「民芸」の器が持つ「厚い、重い、どれも似た文様」などの特徴にあまりいい評価はしていなかった。

それでも九州まで来た記念にという気持ちと、驚くほど廉価だったから買い求めた。

アマとはいえ作り手の立場からしても、こんなに廉価で暮らせるのかなという程安く、

普段から作家物の値段が基準になっていたからあまりの安さが気の毒になった。

また、道楽陶芸の私の作品値段と、それで家族を養う「小鹿焼」の値段が同じようでは申し訳ないとも思った。

 

 

「小鹿田焼」は団体として「小鹿田焼技術保存会」が重要無形文化財(団体国宝)に認定され、

窯場地区の自然がとても豊かで、時々TV中継されたりするので全国的によく知られているが、

「小鹿田焼」の関係者は作家活動を禁じられているから作品への銘入れもなく、故に個展や公募展で見ることはない。

「飛びカンナ」等の伝統技法や、「民芸運動」の提唱者・柳宗悦、バーナード・リーチとの関係で書物からの知識はあったが、

あまり私の嗜好には入っていなかった。

だから何かの参考になればという思いと、とにかく安かったから数点を求めた。

 

 

 

重い荷物を下げて帰った甲斐があったと実感したのは、それらの皿を使い出してすぐだった。

皿の大きさ、深さ、口縁の処理や内側のカーブ、「飛びカンナ」の文様などすべてが使いやすかった。

「重い、厚い」はその通りだったが、バランスがいいから適度の重さがかえって手取りよく感じる。

料理に使う器は使いやすさが第一で、持ち歩くものでもないから多少重くてもいいし、使いやすい器は洗いやすいとも思う。

文様としての「飛びカンナ」が、皿を洗う際洗剤で手が滑るのを防いでくれるのも使ってみて分かったことだ。

伝統の力というものをあらためて認識した。

「小鹿田焼」は変化の激しい世の中で、芸術性よりも使いやすさに徹して生み出される器の力強さを静かに語っている。

いつも変ることを求められる現代にあって、変らないという力強さもあるのだろう。

 

 

 

以前にも書いたが、作家が作る食器は使いにくいものが多い。

作品に個性や美しさを求めるのが作家の一義的立場だろうから、使い勝手の良さが犠牲になることがある。

使い勝手の悪い器に料理を美しく、美味しく盛るのも料理の技術かと思うが、普段使いの器は使い勝手の良いものがいい。

普段使いの器と「ハレ」の器はどこの家庭でも違うだろうが、魯山人の言によれば「器は料理の着物」だそうだから、

どのような着物をまとっても着こなしの美しさ、つまり器と料理の調和は必要ということだろう。

 

 

 

子供の頃は、貧しい時代の貧しい村の貧しい家庭に生まれたからみんないつも空腹だった。

私たちは誰もが「肥後の守」を持ち歩き、腹が減るとサツマイモなどを掘り出しては、皮を剥いてはかじって空腹を満たした。

子供達はサツマイモに始まり、スイカ、マクワ瓜、トマトやキュウリ、柿など手当たり次第畑からかっぱらって口にしたが、

「肥後の守」はいつもポケットにあって最高の料理道具だった。

そんな育ちだから先ず空腹を満たすことがすべてで、長じても器や全体の見栄えなど歯牙にもかけなかった。

やきものを始めるようになってから器を気にするようになったが、「三つ子の魂」で今も最初に料理が目に飛び込んでくる。

食ようやく器に目が行くのは食い終わってから。まったく困ったものだ。

 

 

 

(焼き締め飾り壺)

写真HP更新用 056