web悠果堂美術館通信(7) 人間国宝のやきもの その1
「重要無形文化財保持者」、通称『人間国宝」は陶芸に限って言えば、
荒川豊蔵のみ志野と瀬戸黒の2つの分野で指定されているが、現在までに36名が認定されている。
そのうち現存する保持者は10名。
アマチュアながら「作り手」という立場から見ると、興味の多寡は別にそれぞの作家の認定技術に心底敬服する。
彼らは長年それぞれの分野で技術を追求し認定されたが、その分野だけを繰り返してきた作家は殆どなく、
様々な種類のやきものを追求し、最後に自分の目指す芸術性とマッチしたものに辿り着き認められたのだが、
彼らの前作とか若作と言われる作品を見ても、後年作家が辿り着く地点の萌芽が垣間見える。
他方、「愛好家」若しくは「蒐集家」という立場になると、人間国宝と言われる作家の作品に対し「作り手」と若干異なる見方が生まれる。
先ず「石もの」つまり磁器作品は、私の場合あまり蒐集に情熱が湧かない。
色絵磁器、染付、白磁、青白磁、九谷磁器などが認定された磁器作品の分野に当たるが、富本憲吉、塚本快示以外は、
食費を切り詰めてもという思いにはならない。
代表的な作品を一つ位は欲しいと思うが、それ以上という欲望は少ない。
余談だが、「物を蒐集する」という行為は、追求すればするほど軽い狂気が生まれる。
「蒐集家のこころには鬼が棲む」という言葉を読んだことがあるから、あえて「蒐集」の文字を使ったが、
後世の人々を魅了し、資料としてもその道を目指す人々を刺激する一流品を集めるには、多額の金だけでなく、
手元に引き寄せるという「所有への執念」、言い換えれば美に魅入られた者の軽い狂気が必要だと思う。
美を商うものと美を購うものの違いは、この軽い狂気(妄執)の有る無しによるかとも思う。
そのコレクション故に、名門商社「安宅産業」を潰したとも言われる安宅英一の在りし日の姿などを読むと、
贔屓目に見ても尋常ではないが、「大阪市立東洋陶磁美術館」で来館者にため息をつかせる「安宅コレクション」を見るたび、
彼でなければ出来ない蒐集という感動と、美に魅入られた者の狂気を感じるのは私だけではなかろう。
「虎は死して」というが、安宅産業の消滅と引き換えに残された超一級の安宅コレクションは、
「安宅マン」と言われた企業戦士たちの悲劇をもその背後に負っている。
どちらが残った方がよかったか、語る人はいない。
さて、塚本快示作品は比較的多く蒐集し、これからアップしていくが、塚本作品に惹かれたきっかけは、
作品から醸し出されるその真面目さと共に、作者のそれを裏付けるエピソードを聞いていっぺんにファンになったという単純な理由からだ。
そのエピソードとは、
ある時美濃の作家たちが団体で故宮博物院のやきもの見学に出掛けたそうだ。
団長は塚本快示で、夜の自由時間になった時、若い作家たちが台湾の悪所(この時代、台湾が一番の「男の天国」と言われた)に行かないよう、
ロビー入口でずっと立ち番をしてチェックしていたという話で、これは若尾利貞先生から直接聞いた。
職人気質の塚本快示の姿を想像するだけで微笑ましくなるような逸話だが、
塚本快示の作品や風貌からにじみ出る「真面目さ」とも違わぬ話で、「陶は人なり」を実感した。
こんなことから塚本快示のファンになったが、冷たいと言われる青白磁作品でさえ塚本作品には温かみが感じられる。
鈴木三成、村田亀水、若尾利貞、このお三方を筆頭に、
私が好きになる作家はその作陶姿勢が真面目な人ばかりだ。
陶芸作家で不真面目な人はあまりいないが、セコイ奴やズルい奴は結構いる。
我以外みな我がライバルだからだろうか。
人間国宝に認められるにも、何処の世界にもあるように自己セールスや周囲の応援が必要なようだ。
私が天才肌の作家よりも努力型の真面目な作家に惹かれるのは、「類は共を呼ぶ」ように私の資質がそうなのか、
「無いものねだり」ゆえなのか、よくは分からない。
(白磁耳付き花生)