裾野の差
サッカー女子ワールドカップ決勝で、日本はアメリカに敗北した。
「なでしこ」と言われる日本の女子サッカー選手に対する生活支援や競技サポートは極端に手薄で、
プロと言われる選手でも昼間働きながら生活費を稼ぎ、仕事の後でサッカーを続けている人もいるという。
日本の女子選手で、サッカーだけで生活が成り立つ人がどの程度か詳細には知らないが、ほんの一握りだという。
大部分は家族や知人の支援と本人のアルバイトが原資のようだ。
日本の女子サッカー人口は4万8000人、対するアメリカは200万人で40倍の開きとのこと。
アメリカのプロはサッカーにだけ集中できる待遇や環境が当たり前らしいから、
これだけ裾野と待遇の差が大きい状態で、アメリカに勝利しろというのが土台無理な話だ。
何となく、日米開戦前夜の国力の差を彷彿させられ複雑な思いがした。
サポーターと言われる人種から「精神論」が聞かれなかっただけましだったが。
この層と待遇や環境の差を知ると、「頑張れ」と応援するのも申し訳ないというか、気の毒な気がする。
この貧弱な環境でよく決勝まで行ったと驚嘆、感動するだけだ。
サッカーが好きで幼いころからワールドカップを夢見て練習してきた彼女らが、短い選手生命のプロである間だけでも、
生活のための仕事から解放してやることが出来ないものか。
2500億円の新国立競技場が不要とは言わないが、その100分の1でも、「なでしこ」とそのつぼみ達に回しても誰も文句は言わんだろう。
「ハードの整備よりソフトの充実」というお題目をここ10数年、耳にタコができるほどあちらこちらで聞かされているのに。
キャプテン・宮間あやが、今の女子サッカーに対する熱狂を「ブームではなく文化になっていけるように」といった。
苦しい環境の中で戦い続ける当事者の素晴らしい指摘だと思うが、今の熱狂が「ブーム」であることを辛い思いで感じているから出た言葉だと思う。
だが、おそらく彼女の思いは実現しないだろう。
日本人が熱しやすく冷めやすいはご存じの通りで、結果は求めるが結果までの過程は知らん顔が民族性ともいえる。
結果を求められる側はたまったもんじゃないだろうから、「過程」にコミットしない私は、いつも「結果」を求めないようにしている。
負けるには必ず負ける根拠や背景があるのだから。
10数年前だろうか、「陶芸ブーム」というのがあった。
何処の陶芸教室も生徒がたくさんいて、当時は陶芸雑誌も4冊出版されていた。(一番水準が高かった雑誌は今は廃刊)
ブームが定着すれば陶芸に関わる人達に何かしらの恩恵も生まれ、「やきもので食って行けるのはほんの一握り」という、
日本の陶芸界の若手たちもやり易くなるだろうと期待した。
なにより陶芸の裾野が広がれば、世界の頂点にある日本陶芸が持つ芸術性や多様性がますます深化し、
1980年代以降停滞を続ける日本の陶芸シーンに、新しい天才や応援団、スポンサーが生まれるかと思ったが、一過性のブームで終わってしまった。
日本陶磁協会発行の月刊『陶説』今月号によると、今年の「東海伝統工芸展」の陶芸出品数は145点で、5年前の212点に比べ67点の減少だとある。
もともと余り裾野の広くない染織、漆芸、金工、木竹工、人形等はそれほど出品数が減っていないようだから、数だけ見れば陶芸の凋落が目立つようだ。
窯業地の陶芸協会に若い人が入って来ないともいう。
こんなところにも「陶芸ブーム」の終焉が見て取れるし、人間国宝や一流作家の個展でも売れ残りが目立つ時代が続いている。
文化や芸術は生活に潤いを与え豊かにするが、それを生み出す人間の生活は必ずしも豊かではないという事例が多い。
だからクラッシク音楽を持ち出すまでもなく、どこかでパトロンやスポンサーの庇護を受けなければ、
言い換えれば、食うための心配がない環境がなければ、良いものが生まれないという側面がある。
裾野が狭まるとパトロンやスポンサー、ファンも減少するから、今の若手陶芸家たちを見ると生活がきついだろうと思う。
それでも志の高い奴はぼろをまとっても精進するだろうし、逆境の時ほど天才が出るからそれほど心配する必要もないだろうが。
昔、自称「陶芸家」のアトリエを訪れたことがあった。
「陶芸家」を名乗るのには別段、資格も申告も必要ないから自分で「陶芸家」と言えばその通りでその男も「陶芸家」なのだろう。
一歩アトリエに入ってかの「陶芸家」の自信作を拝見し訪問を後悔したが、紹介者の手前顔にも出せず暫く時間を潰した。
彼が突然、私に生徒が何人いるかと聞いてきた。
「頼まれれば知っていることは教えるが、生徒はいない」、
「修業中だから、人に教える時間があったらその分を自分に費やしたい」と言うと、
彼には100人の生徒がいて、ひと月の月謝総額が60万とか。
どうせやるなら生徒の数じゃなく志の高さじゃないかと思ったが、「人には人のこだわり」、口にする必要もなかったからやめた。
裾野が広いということは、こういう「陶芸家」も生息できる「ゆとり」があることだと変に納得した。
裾野が広いということは、
村田亀水先生のような「神の手を持つ陶工」が、路傍の花のように人知れず一生を終えてしまうという悔しさもある。
気品ある作品を生み出しながらも名を売ることをせず、生涯をほぼ無名で終わる人。
他方、タダでも要らない作品を多作し、世間から先生ともてはやされれ、自称「陶芸家」が棲息できるフィールドで名を売る人。
当事者にとってどちらがいいのかは私には判らない
中途な100人のファンを採るか、一人のよく見えるファンを採るかは、当事者でもなかなか答えが出しにくいかもしれない。
商売や業界の発展を考えれば半端であっても100人の方が良いだろうし、
美を生み出すと言う立場に立てば、一人のよく判ってくれるファンの方が心強い。
(自然釉二口花生)