短夜(みじかよ)の・・
「短夜の 嘘をまじえて 泣かれけり」
男女の付き合いは深くなればなる程、溝もそれなり深くなる。
その溝を埋めるため、ひとは日々小さな努力を重ねるのだろう。
時に砂をかむような思いで。時に溝を走るすきま風にふるえながら・・。
夏の夜、小さなきっかけで男と女に諍いが始まる。
男も女も、数年前からときおり心に吹き込むすきま風を感じている。
あるいは、今夜の諍いは別れ話にまで進むかもしれない。
女は涙を流しながら、男の不実や愛の稀薄を責める。
諍いは男が部屋を出るか、詫びるまで終わることはない。
女の終わることのない責め言葉に、男はいくつかの嘘がまじっていることを知っている。
だが男はそれを口にはしない。
男の心がもう冷めているからか、それとも女の嘘を暴けばますます女が炎上することを知っているからか。
涙と嘘を武器にする女の執拗な責めも、見ようによれば女の愛。
男の心に爪を立てる女の嘘を暴かないのも、見方によれば男の愛。
たった17文字で、例えばこんな物語を想起させる日本語は、他に例のない豊かな言語だと思う。
「定型短詩」と言われる日本独特の言語表現は、日本語という膨大な鉱脈に、無数の宝石(原石)を内蔵しているところにその出自があるのだろう。
今日まで多くの歌人や俳人たちが、日本語という鉱脈の中から苦闘の末に原石を掘り出し、磨き上げた作品が私たちを感動の世界に誘ってくれる。
アメリカで「俳句」がブームになりだしているそうだが、はたして「英語」に日本語の持つ微妙なニュアンスがあるのだろうか?
数多くの「短詩」の中で、私が一番上手いと感じた句が冒頭のもの。
俳句というカテゴリーに入るのか不明だから「短詩」とした。
記憶では作家の結城昌治(『ゴメスの名はゴメス』、『軍旗はためく下に』などの著者)の句で、
17文字で物語を喚起させる言語感覚にはただ脱帽するのみ。
こんなに上手い粋な作品に接したら、句を作ることなどできなくなる。
「短夜」が「みじか夜」であったか、「嘘」が「うそ」であったか、「まじえて」が「交えて」であったか、
今では確かめようもない。
もう一つ好きな句
「門を出て 故人にあいぬ 年の暮れ」
作者は失念。小説家でほとんど無名の作家だったと思う。
私小説作家だったか?
昔好きだった短歌や俳句は口をついて出るのだが、最近はいいなと思うそれらもメモでも取らなければ出て来ない。
老いて来ると記憶力が減退するが、それは自然過程かと思っていたらそうではないらしい。
老いるに従い、「記憶」する習慣が少なくなって、使わないから記憶力が減退するのだそうだ。
なるほど、老いて来ると記憶せずとも何とかなるという惰性に流され、記憶しようとしなくなる。
老いを加速するのは、何事であれ「めんどうくせえ」という怠惰な心持が大きな要因なのだろう。
錆びついた「「記憶」の歯車を少しずつまわし始めてみよう。
(灰被り鉄赤釉丸壺)