英霊・ふたり

お知らせ

父方の祖父は男4人女6人の子供を育て上げた。(嬰児、幼児で亡くなった人は含まない)

子供の数だけ見ても、「生めよ増やせよ」という戦前の国策通りの生き方をした人だった。

記憶に残っている祖父は、度を越すほど寡黙で周囲や運命に唯々諾々と従い、

趣味もなく酒も飲まず、煙草を唯一の楽しみに、少ない農地を黙々と生涯耕し続けた人だった。

祖父が死ぬまで一緒に暮らしたが、声を荒げた姿を見た記憶がない。

 

村一番の貧乏小作人で、「あめ・つゆをしのぐ」程の家しかなく、

その家とて雨が降れば家中が雨受けの鍋や洗面器で足の踏み場もない、実際は雨もしのげぬ家だった。(中学入学まで私はこの家で育った)

比べようがないほど貧しかったにも拘わらず、知人が何かの事情で育てられない女の子を養女として育ててもいる。

昔の人は自分の口がひもじくても、当たり前のようにお互いが手を差し伸べあって生きていたのかと今更ながら思う。

貧しい時代にあった豊かさを、豊かになった現在私たちは持ち合わせているのだろうか?

 

祖父は、長男、次男を戦争で亡くし、私の父(三男)も終戦前に召集されている。

父は召集後ただちに島根県に送られ、その後茨城県で終戦を迎えたと叔母たちから聞いているが、

父が召集された時すでに次兄は戦死していて、末弟は当時2~3歳だった。

(昔は、甥・姪より年下の叔母・叔父がいた家がよくあったが、実家もそうだった)

若い頃はこうした自分の<家>の歴史に対して格別興味も持たなかったが、

自分のルーツである<家>の歴史に思いをはせる歳になったということだろう。

 

次男は24歳でマリアナ海戦で戦死し、遺骨もなく、戦死広報だけ届いたという。

次男は出兵前に撮影したと思われる軍服姿の遺影と、「勲7等青色桐葉章」を残しただけだ。

当然私が生まれる前に戦死しているから、遺影だけで知る伯父だが、

伯父は結婚前に召集され、家庭を持つこともなかったから、

今は私が慰霊して行く立場にある。

 

長男は沼津大空襲(昭和20年7月17日)の際、沼津海軍工廠にいた軍人で、

戦死した部下の家族(妻と娘)を助けるため、焼夷弾の火中に入って無事二人を助けたが、

自分は火中で亡くなったという。

戦後、長男が救った娘さんが訪ねて来て、やけどの跡はあったが元気で叔母たちを喜ばせたという。

この伯父は家族があった。

 

長男の死に対し、「役所」(どのような部局か、叔母たちは「役所」というだけだ)が「戦死」扱いをしないと通達がっあった時、

それまで周囲に抗う姿を見せたことのない祖父が烈火のごとく怒り、

「役所」に何度か乗り込んで長男の死を「戦死」と認めさせたと叔母たちは言う。

二男を最初に亡くし、頼りの長男も死に、

三男は敗戦一色の外地に「捨て駒」として送られるという時の祖父の心中は、

想像に余りある

権力を持つ立場の人間に、何時も黙って従って生きて来た祖父の怒りが、

抑え切れず爆発したのが、役所に怒鳴り込んだ時だったのだろう。

 

家庭を作ることなく戦死した伯父(次兄)のことを知りたいと思うようになってから、

一つの疑問が浮かんだ。

「なぜ私の実家にだけ3人の召集令状が舞い込んだのか?」という「疑惑」といってもいい。

もし終戦が延びて、父が外地に送られれば戦死は必至で、幼子の末弟と老いた祖父しか男手が残らず、

おそらく実家が立ち行かなくなったことは想像に難くない。

軍人の家系でもない、貧乏小作の家の働き手3人に招集をかけた「役所」に対し、私でさえ怒りをもつこのごろだ。

 

叔母たちに「何故うちだけ3人召集されたのか?」と聞いたことがあるが、理由は不明だった。

おそらく、徴兵名簿から父やその兄たちを選んだ人物は亡くなっているだろうが、

「何故うちだけが3名、それもすでに戦死者を出している家から」と詰問したい思いが消せない。

いつの時代も、貧しい人間が虐げられる構造は変わらない。

今では、実家が赤貧洗う小作人だったからかと疑っている。

 

いつの時代も人の不幸の上に、自分は無関係な顔をして胡坐をかく恥知らずな奴はいる。

こうした輩は何時だって「正当」な言い逃れをポケットに入れ、

心の痛みもなく人を数や量で見、扱う。

そして、この手の人間は何時も自身があまり傷つくことなく悲劇を逃げ延びる。

口惜しいが、私が「何故、私の実家だけ3名も?」という疑問を抱いたのが遅かったかもしれない。

 

死ぬまで忍従の日々を重ねた祖父の、生涯一度の怒りに私が思いを馳せるようになったのは、

私が、前の世代の父や叔母たちを見送る機会が増えたからだろう。

この齢になって、祖父や伯父の人生が少し見えたような気がする。

 

町内の戦死した「英霊」は、菩提寺・大中寺の墓地の一等地にその墓が並び立っている。

それぞれの墓碑名は、「英霊」が所属していたであろう部隊の大将や中将の揮毫になっているが、

実家の墓碑銘だけは揮毫者の名がなく、書体も周囲のような軍人の書体ではない。

おそらく墓石を買う金すらなく、戦後ずいぶん経ってから戦死した二人のために墓石を求めたのであろう。

若しくは、祖父が上官の揮毫を嫌ったのかもしれないが、今となってはそれも不明だ。

 

一度だけ業界の付き合いで靖国神社に行ったことがある。

英霊が眠るというから、神社のどこかに伯父たちの名前でもあればと思い捜したが、

伯父たちの名前を探す方法すら分からず、結局なにも見つけることはできなかった。

その後、境内の「遊就館」という有料の博物館に入ったが、

私から見ると、さながら戦争グッズコレクターご自慢のコレクション展示場で、

戦死者を金づるにしているようでひどく不快だった。

靖国神社の是非はともかく、もっと敬虔な場所かと考えていたがそんな雰囲気はなく、

違和感だけが残った。

 

実家の「英霊」ふたりは、憂いなく靖国神社に眠っているのだろうか?

 

 

(青瓷鶴首瓶)

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