白か黒か?
「白か黒か、はっきりさせる」という言葉を聞く場面がある。
はっきりさせる物事が、「二者択一」出来る場合は良かろうが、この物言いにいつも違和感がある。
「世の出来事に白黒を明確に判定できることはそれほど多くはないだろう」という思いだ。
「この場面で白か黒といっても、答えはグレーだろう」と思う場面に出会った例が圧倒的だ。
実感としては、白黒どちらかに峻別できるほど人間というものが単純(シンプル)には出来ていない、と言い換えてもいい。
特に,人の心というやつはシンプルさのかけらもない。
ついでに加えると、『シンプルイズベスト」というが、シンプルなもの(例えば、思想や理念、価値、基準、文化などなど)ほど
大きな精神世界を内包しているから、
シンプルなもの(思想や価値、理念などなど)の本質を説明しようとしたら、莫大な時間や言葉を必要とする。
いい例が、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という単純な問いにまともに答えようとしたら、
人類の歴史や宗教、理想、価値、戦争から法律などすべての物に触れなければならない。
「人を殺してはいけない」という単純な理念が人間のすべてを内包しているからだ。
世の中の事象はほとんど、白と黒には分類出来ないグレーが大部分だと思っている。
だから、「二者択一」を迫る(迫られる)時は、そのグレーが白に近いか黒に近いかを見極めたい。
私がよくとる方法。
左に白を置き1とする。右に黒を置き10とする。
この間のグレー2~9は徐々に白から黒に近くなる。
どうしても「二者択一」しなければならない時は、そのグレーが3であるか、8であるかを見極め、近い方の判定をする。
まあ、世の中には1(白)も10(黒)もまれで、2から9のグレーしかないというのが実感。
この方法が完全でないのは、中間に位置するグレー(5,6あたり)の見極めが難しいということだ。
黒に近いと思ったグレーが実は白に近かったりすることがある。
だが幸福なことに、仕事以外では、「二者択一」を自他ともに求めた時期は遠ざかり、
比喩的に言えば「白黒着けるよりもグレーはグレーのままに受け入れる」という選択肢の方が多くなっている。
「結論は出さなくてもしばらくはこのままでいいのじゃないか」という思いは、だがはたして知恵なのか怠慢なのか?
白から黒まで10段階という「基準」は薪窯焼成の作品の評価に似ている。
薪窯の焼成は電気やガスに比べてどうしても失敗が多い。
実感では、10個の作品を薪で焼くと、「3個がまあ満足」、「3個は明らかに失敗」、「中間の4個はほぼ失敗とも成功とも」取ることが出来る。
悩むのはこの中間の4個だ。
窯出し後すぐはダメ出しをしてもしばらくすると情が移るのか、いいところを探してやや満足の方に入れてしまう。
作り手にすると一つでも多くの作品を採りたいから、この心の動きは仕方がないと思うが、
加藤唐九郎のようにたった一つの茶碗だけを採り、あとはすべて失敗と割ってしまうほどの
自作に対する厳しさを持てないかと思う。
失敗とも成功とも捉えられない4割の作品(実際は失敗なのだが)が、
しばらくして「ほぼ成功」になってしまうところが私の厳しさの無さだが、
作品に「情が移る」からだろう。
(信楽桧垣文壺)