恥
長く「武士道」というと、『葉隠』の有名な一節「武士道というは死ぬ事と見つけたり」くらいの浅い知識しかなく、
特にこの一文は、太平洋戦争の時代には、応召された国民に玉砕や特攻、自決など、
<死>を強要するのに利用されたのでいい印象はなかった。
降伏したり捕虜になることは日本人として最も恥ずべきこととし、むしろ自決を選べと国民は頭に叩き込まれた。
「生きて虜囚の辱めを受けず」がそれだ。
戦時中、応召された国民をこうした言葉で死に追い込んだ指導者たちは、
敗戦後も「死ぬことを見つけ」ようとせず、おめおめと生き延び、
短時間のうちに社会復帰し同じような上位の立場に戻っている。
いつの時代も少数の煽る方は延命し、多数の煽られる方が犠牲になるという構図は変わらない。
せめて、心情に訴えようとするスローガンやテーマを疑ってかかるくらいの自尊心を持ちたいと思う。
しかし『葉隠』は、その出自、鍋島藩内での扱われ方、近年における諸研究などを見ると、
私が思っていたほどには、硬直した精神論に彩られた教条主義的な教義でもないようだ。
価値の根底に<死>を置き、その絶対性で人を内側からコントロールする、
つまり「自発的な死こそが究極の誠実さ」だと教唆するような書物ではないようだ。
特定の部位だけで全体を想像するのはよくありがちだが、
私自身いつも注意しなくてはならないと思った。
「武士道」というと、非常に曖昧模糊とした概念であるが故に、
今もって異なる立場に立った異なる解釈が多いが、
過日、新渡戸稲造の著『武士道』についての解説文で、
「武士の教育において守るべきものは品性の構築であり、思想、知識などの知的才能は重視されなかった。」
また「廉恥心の養成は少年教育の徳目の最初の一歩であった」(それぞれ主旨)と読んだことがある。
「品性」も「廉恥心」も日本的風土の中で育まれた、いまは無くなった日本人の民族的特性、資質と思うが、
「武士道」という曖昧模糊とした概念の中に、人間の品格や人としての恥の意識を育み、
人としての高みに導こうとした理念があったと知ると救われる気がする。
現代の日本人は「品性」が劣化し、「恥という内なる規範を失くした」と言われる。
頷かざるを得ないが、競争激化の現代社会にあっては、品位ある行動や恥の意識を持っているとすぐに敗者の側に立つようになる。
「厚顔無恥」がビジネスの世界で必須の条件になったのはいつごろからだろう。
金を儲けた奴が勝者という社会も住みやすいものではない。
(米色青瓷壺)