世も末だ
以前、宮崎駿の「風立ちぬ」というアニメ作品(私は観ていない)の中に、
煙草を吸うシーンがあり、
そのシーンがこの映画を見る青少年に喫煙を誘発するとして、『日本禁煙学会』という団体が、
質問状か批判文かは知らないが、そのシーンに抗議(批判)する文章を公開した。
詳細はつまびらかではないが、主旨はこんなもので、ニュースで見たのだからたぶん公開したのだろう。
作者宮崎駿に送ったのか、それともマスコミに送ったのかなどは判らないが、
最初、この団体の売名行為かと思ったほど違和感があった。
次の思いは、「批判のやり方が戦前に戻ったようだ」という暗澹たるものだった。
批判の原則として、「特定の個人や作品を批判する時は、何処までも一個人として為すべだ」という
当たり前の<批判原則>が彼らのやり方に全くなかったからだ。
集団が個人(この場合、スタジオジブリが制作した作品であっても、その作品は<監督>宮崎駿に帰属する)を批判するというやり方は、
戦後社会の成熟過程でとっくに淘汰されたと思っていた。
。
にも拘らず、こうした批判(方法)が平気で行われたということは、
戦後という時間が、大げさに言えば無為に流れたと感じた。
悪しき「スターリン主義」の亡霊がまだ生きているのか、と言い換えてもいい。
こういう批判の仕方は、あくどいが故に効果はあるかもしれない
(事実、マスコミが飛びついた)が、決して許してはいけないやり方だ。
たぶん批判した側(日本禁煙学会)には、この論理は理解不能だろうが・・。
映像作品に喫煙シーンがあれば、それに触発されタバコを吸うものが出るという発想は、
批判者の持っている、人間や映画作品に対する理解の軽さ、浅さ、薄っぺらさを示している。
喫煙シーンを、あるものは格好がいいと思い、あるものは取るに足らないと感じ、
あるものはそのシーンを見逃すかも知れない。
映画ファンを自称する私などは、ストーリの流れに関係の薄いシーンは良く見逃すものだ。
同じ映画を再度観て「え、こんなシーンあったけ?」と驚くことがよくある。
一個の作品(映画に限らず)に対する見方や評価、感動、反発などはそれぞれに異なり決して一様ではない。
それが人間の特性であり個性といえよう。
それを一括りにするこの団体の発想は、「人を理解する」という行為の底にある精神的貧しさを示している。
池波正太郎の原作をドラマ化した「必殺」シリーズというTVドラマがあった。
そこそこ良く出来たドラマで、主題歌が好きだったせいもあり時々見ていた。
ご存じのとおり、このドラマには「殺されても仕方がねえな」と思わせる悪役が出て来て、
依頼人を殺害したり苦界に落とし、その後、死んでいった彼らの恨みを「仕事人」が請け負い、
それぞれ得意とする殺法で葬るドラマだった。
悪役が殺されるシーンと、実際はありえないだろう殺法に一時のカタルシスを感じたものだ。
このドラマなど『日本禁煙学会』の論法でいけば、
人にとって究極の悪である殺人を、それもその方法を種々考案して毎週これでもかと流しているが、
こうしたシーンは青少年に悪影響を与えるばかりか、殺人を誘発することになる。
だから、殺人シーンがあるドラマなどとんでもないとなるはずだが、
この理屈に首肯するまっとうな大人はたぶんいないはずだ。
「馬鹿言ってるんじゃないよ」となる。
なぜなら、私たちは誰もが感情移入の度合いの差こそあれ、ドラマをドラマとして見て、
日々のストレスや虚しさをカタルシスしているからだ。
こんな簡単なことすら理解しない団体が「禁煙」を主張する分だけ、その主張にウソ臭さを感じてしまう。
また、どのようなシーンであれ、作品の一部を取り上げて作品全体を批判する姿勢は、決して認めてはいけないと思う。
「日本禁煙学会」の批判の仕方は、「木を見て森を見ず」とも「群盲像を評す」ともいえるが、
こうした現象が頻発する世の中になってきた。
つくづく世も末かなと思う。
彼らの姿は、中世の「魔女狩り」すら彷彿させるが、
個人的経験から言うと、こうした行為に走るやつは大抵、「正義」の御旗を掲げていると錯覚し、
過剰な自信を持っているから始末が悪い。
まったく世も末だ。
「正義をなす時は、恥じらいながらなすくらいがちょうど良い」(主旨)とは、
太宰治だったか、吉本隆明だったか?
(青瓷花器)