web悠果堂美術館通信(48)
村田亀水先生が6/30に亡くなった。
先生は私の母と同じ昭和2年生まれで90歳だった。
私とは干支が同じうさぎで、そのせいかうさぎの陶彫も随分作ったようでこのサイトでもいくつか公開している。
ご子息の陶芸家・村田眞人さんによると、午前中は普段とまったく変わらず、午後になって急に発熱しそのまま息を引き取ったそうだから、
私が憧れる往生だったと思う。
最近は体調を崩し作陶からも遠ざかっていたが、年数回の電話ではお元気で、まだまだあれを作ってみたいなどとおっしゃっていた。
しかし徐々に電話の会話が聞き取り辛くなり、その様子から何時かはこの日が来ると秘かに覚悟はしていたが、
やっぱりお亡くなりになると喪失感は大きい。
来年の美術館オープンの際には沼津にお見え頂き、先生の作品について現物を前にいろいろ話をしたかったが、
それが出来なくなったのが大きな心残りだ。
お孫さんによると、先生もその日を楽しみにしていたという。
先生は若くして父親を亡くし、陶工として腕一本で幼い兄弟や家族を養ったと聞いてる。
そのため寝食を惜しんで働いたという話も周囲の人からは聞いたが、
先生はご自分の苦労話を口にすることはなく、20年以上のお付き合いになるが最後までご自身と自作品については寡黙なひとだった。
腕のいい職人によく見られる了見の狭さは微塵もなく、誰の作品であれ素晴らしいものは率直に認めながらも、
ダメな作品については、「ショーもないものをつくって」とダメ出しをする口調は実に小気味よかった。
京都のやきものの再興をいつも願っていた語り口が忘れられない。
先生が煎茶家元の仕事を離れ、好きなものをだけを作るようになってからの作品は殆ど私が入手したはずだが、
世間は広いからまだまだ市中には先生の名品がいっぱいあるだろう。
これから小さな縁を頼りに先生の作品を集め、ほとんど無名のまま亡くなったが、素晴らしい作品を残した陶工の姿を伝えていきたい。
個人的には、先生の作品が醸し出す「品格」は他の作り手の追随を許さないと思っているが、
そのことを伝えることが私の使命だと考えている。
美術館オープンの際は「館友」として常設する予定でいるので、ぜひご来館いただき直に作品に接して頂きたい。
↓「壺屋敷」?
最近よくテレビで「ゴミ屋敷」を取り上げている。
どういう価値観や精神構造で自分の住居に「ゴミ」をため込むのか、他人にはうかがい知れないが、
ふとわが身を振り返ってみたら、私の実家も周囲から「壺屋敷」などと呼ばれてはいないか心配になる。
この棚は、梅雨で現場が休みの社員に作ってもらい、置き場がないから実家にセットした棚だが、
ホコリまみれの作品に雨があたり少し綺麗になった。(こちらは主に薪窯のもの)
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この棚は昔作ったものを実家に移動したが、
水平を取らなかったのでパイプが曲がったままだった。
社員が水平に直して棚板も交換している最中だが、待ちきれず置き場所のない壺を仮置きした。(こちらはガスと電気によるもの)
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観葉植物の温室として作った棚だが、壺置き場になってしまった。
別段偏執狂的に壺ばかり作っているわけでもなく、作ったものが引き取り手が無いから溜まっただけだが、
知らない人がこの数を見たらやっぱり「偏執」的に見えるかもしれないな。(最近のもの)