魯山人作品は高すぎる!
「ものの見えない人が千人で、ものの見える人が一人もどうかと怪しまれはせぬか」
と憤慨したのは,北小路魯山人だった。
よく知られているように、魯山人は書・篆刻・陶芸・料理に天才を発揮した人物であったが、
歯に衣着せぬ物言いが多くのところで軋轢を起こし、天才であるがゆえにその「人物像」は評価が大きく分かれている。
嫌な奴が美しいものを生み出したり、好人物がしかし美を生み出せないことが「美の世界」では当たり前だから、
魯山人の人間性に対する評価が最悪であっても、彼の作品それ自体の評価とは全く別で驚きもしないが、
概して私の周辺の女性たちには魯山人の評価は低い。
私にはどうも作品自体の評価よりも、その人間性に対する評価が先行しているような気がするのだが・・。
結婚サギまがいを繰り返したといわれることが、女性に忌避される理由なのかもしれない。
天才が私達と同じ生活者の目線で物事を見ていたら、当然その天与の才は発揮できないし、
天才の天才たる所以は、心に強い毒を内包したもの、または特別の狂気を持ったものと思っている。
天才たちの仕事(作品)とは、彼らの内なる毒や狂気、混乱、迷走などを、苦闘の末に美しく昇華させたものに他ならない。
彼らが、自身の毒や狂気に気付いているか否かは別として。
「私の作品はすべて私の迷いの結果である」とは天才モーツアルトであったか?
近代陶芸の巨匠といわれる作家たちの中で、魯山人ほど毀誉褒貶の激しい人物はいない。
織部焼きによる人間国宝の指定を断った理由も諸説流布されているが、どれもがあまりスマートなものではなく、
魯山人といえば「傲岸不遜」といわれる彼にふさわしい理由が多いと思う。
だが、魯山人の評価も時間の流れというフィルターによって次第に浄化され、作品それ自体が語り継がれていくものと考えている。
「世の中には目明きがいない」と憤慨した魯山人の作品が、生前に比べて驚くほど高く評価され、
高額で取引されている現代を、墓に眠る彼はどのように見ているのだろうか?
魯山人と名が付けば、どうということのない作品にまで高額な値段がつく現代を、
あたかも見越したように生前に魯山人が語った言葉が皮肉だ。
「良寛の書はいかにもよい。が、良寛の書でさえあればなんでもよいというふうな心酔の仕方ではどうかと思う。」
(焼き締め花生)