生きているものは・・・
「生きているものは生きていることしか語らない」は、記憶が確かであるならば埴谷雄高が『永久革命者の悲哀』の中で語った言葉。
20代前半に出会ったこの言葉は、今も私に付きまとっているが、漠然とした理解のままに40年程が過ぎた。
60過ぎた今、実感として「私たちの<生>は、いつかは<生>が遮断されるという事実を殆ど意識することのない場所で日々営まれ、ただ生きている場や時間や関係が生み出す関心事だけを引き寄せている」ということかと考えている。
だからどのように<死>を語っても、個々の<死>はいまの自分の立ち位置からしか語れない。
この時代、この場所に生きている自分にとって認識される<死>は、<生>が個別的であるようにまた個別的であらざるを得ない。
もちろん、共同観念としての<死>は別なのだが。
親鸞のように<死>の側から<生>を俯瞰するができれば、生きる様もまた変わるかもしれないのだが・・。
俳優・高倉健が11月10日に死んだ。
ニュースになったのは死後1週間たってから。
いかにも健さんらしいと誰もが感じたことだろう。
学生時代、池袋文芸座地下のオールナイトで高倉健主演の映画を一度に5~6本続けて見た。
死んだ女房と二人だったが、映画館を出ても頭がボーとし、空が白々と明けるころ電車に乗って帰ったことが懐かしい。
健さんは決してうまい役者とは思わなかったが、私は『昭和残侠伝』シリーズが好きで、彼以外の役者ではあれほどのカタルシスは生まれなかっただろう。
70年代初め、世情に漂っていた「反体制の美学」を織り込んだ映画に酔いしれたものだ。
どういう訳か『網走番外地』シリーズは酔いが浅かった。
生来寒がりの私には、画面に繰り広げられる雪のシーンが苦手だったからかも知れない。
東映を出た後の作品のほうが世評は高いのだが、それらの作品は健さんの存在感が強すぎて、なんとなく周りから浮いている感じがし観ていて少しつらかった。
私は東映で乱作された作品のほうが気に入っている。
合掌
(萩釉筒花生)