政治家
大野伴睦という政治家が、「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」という名言を吐いた。
政治家の傲慢な自己認識、「選良」意識を如実に表した言葉でよく耳にする。
世間的に見れば若干シニカルな当たり前の認識だろうが、こうした考えが現実力を持つ日本の社会や人間の価値観というものもどうかと思う。
政治家がバッジを着けることにより手にする権力や影響力、特権と言ったものが、「ただの人」よりも大きいことは事実だが、
それを持って「ただの人」が政治家という人種より人間的に劣る訳ではない。
むしろ経験的に政治家という人種を考えると、彼らには太宰の言う「含羞」が全くない人種だと思う。
「恥を知らない人間ほど強い」という体験は、誰もが経験したことがあると思うが、
「3歩歩けば考えが変わり、一晩寝れば180度考えが変わる」と言われる政治家という人種を見ていると、
変節や恥を恥と思わないことが、政治家の重要な資質かと思ってしまう。
市井に「ただの人」として生まれ、外観的には誰もが似たような生涯を送り、「ただの人」として死んでいくひとの一生は、
「選良」として権力に寄り添い、特権や影響力を行使して生きた人間と全く同じ価値だ。
むしろ個人的には「ただの人」として生き、死んだ人にこそ強い親愛や敬愛の思いを持ちたいと思っている。
「普通が一番」と繰り返した藤沢周平の確信こそ、ひとの究極の価値だと思っているが、
こんなことを考えたのは、総選挙で世の中が喧しいからだ。
ドラマより面白い現実の政治家たちの離合集散と騙しあいの人間模様は、選挙に勝つためには何でも有りの醜悪な有様だが、
結局、当選して「官軍」になれば、裏切り、背信、嘘、だまし等すべてがご破算にできるからだろう。
薩長「官軍」の傲慢よりも、「賊軍」会津の敗北にこころを寄せた日本的な情念は、政治的現実の前では無力ではあろうが・・。
野党第一党の「民進党」が、政党としてまったく理念や実体のない「希望の党」に飲み込まれ、
ただ自分の選挙に有利に働くという下心だけで、女党首の人気に群がるさまは、
政治家の本音が、ただ「政治家であり続けたい」という身勝手な欲望にあり、
その目的のために恥も外聞もまったくない姿は、政治や政治家たちの究極の劣化に見える。
こうした姿は、政治家として許されても「ただの人」としてどうかと思う。
東京都知事の人気(ブーム)も早晩陰りを見せ、またぞろ以前と同じ政治状況が生まれることは、
長く生きて来た人間には容易に察しが付くと思うのだが。
彼らは「ただの人」に成りたくないから、当選して「政治家であり続ける」ことを自己目的化し、
そのために何でもやるのだろうが、そこまで無恥な執念を見せるのは、結局政治家という立場が私達の想像以上に特権的だからだろう。
政治家が臆面もなく「国民」等と言うほど、彼らの頭の中や視線には国民のことはないと肝に銘じた方がいい。
自分の兄弟や子供、娘婿と言った身内を後継にしようとする姿も、
一度掌握した「抜群にいい思い」というやつを身内で何時までも独占したいからだろう。
私は「綺麗ごと」を言うやつが子供の時分から嫌いだった。
本音を隠して「綺麗ごと」を言うとき、自分自身に対する裏切りと、相手に対するだましになるから二重の嘘の積み重ねだと思ってきた。
だから腹で思ったことを口にし、子供の頃からよく教師に叱られたり評価を下げてきたが、そのことでの後悔はあまりない。
今さら後悔しても遅いのだが。
「ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろう」という、詩人の研ぎ澄まされた<妄想>ほどには確信はなかったが、
こころにもないことをいうことは、誰よりも自分に敗北するような痛痒感があったことは事実だ。
だから様々な場面で腹の中の本音を吐いてきたつもりだが、結果として「変わった人」だとか「生意気」という評価になっていたようだ。
佐々木幸綱ではないが、「どのように生きても恥」と私自身は思っているし、今更生き方を変えることもできない。
政治家も「どのように生きても恥」と思って訳の判らない行動を取っているのかは不明だが、
せめて腹の中に少しは国民への思いをと願うだけだ。
政治家が選挙目当てに、出来そうもないことや本音と反対のことを大声で叫ぶ日々がしばらく続くが、
個人的には、社会に美辞麗句が溢れるとき、その社会は健全さを喪失しているという確信がある。
私自身はひとにものを託すということが苦手で(要するに了見が狭いということ!)、
自分ができる範囲で生きて来たと思うので、人生も小さくまとまったものになったが、
あまりにも調子のいい奴らにこの国や社会の将来を負託するのも考えものだ。
若い頃、「選挙」というシステム(制度)とは違った方法で、国民が政治を仮託する方法はないだろうか、と奇想天外なことを考えていた。
大げさに言えば、人類の知恵が到達した現時点で一番いいシステム(間接民主主義政治)を超えるものを考えられないかということだ。
そうすれば、今のシステムよりも質のいい人間を代表(代理)に選べるだろうと考えてきたが、当然浮かぶはずもない。
政治を仮託するのに、「なりたい人よりやらせたい人」とよく言われるが、
権力という蜜の味を求める人間の本音の姿をリトマス紙のように色分けて見分け、入口で排除できるシステムでもあればいいのだが。
「みんががめいめい自分の神さまがほんとうの神さまだといふだろう。
(中略)
それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論することだらう。
そして勝負がつかないだらう。
けれどももしおまえがほんたうに勉強して実験でほんたうの考えとうその考えを分けてしまえば
その実験の方法さへきまればもう信仰も化学とおなじやうになる。」
宮澤賢治『銀河鉄道の夜』
歴史が人間の英知の壮大な実験の繰り返しだとすれば、「本当」と「嘘」を分ける方法さえ決まれば、
何時か宗教対立も止揚できる時が来るかもしれない。
ちなみに、
若い頃からの経験的認識だが、バッジを欲しがる人種はヤクザと政治家が圧倒的だ。
バッジ(地位や権力)が無くても人や社会を動かすことが出来る方法は本当にないのだろうか?
↓茶葉末一輪挿し
まったくいつもこの形。
想像力(創造力)の無さに自分でも呆れる。
この形の色違いの不良在庫がいくつあるだろう。
釉調はいいと思うと自画自賛。