愛に狂う・壊れる
ひとが「社会的常識」と言われる振る舞いやマナー、考え方などから何かのきっかけでそれると、
度合いに応じて私たちはその人を「少しおかしい」とか、「少し病んでいる」などと否定的に評価することがある。
その時の物差しは、さほど確たるものでもなく、社会生活の中で自然に身に付いた漠然とした判断(基準)だろう。
私たちは日々の生活において、ものごとの評価や判断を殆ど「社会的常識」という漠然とした基準に沿って行っているが、
誰もが何かの契機で社会的規範や常識から逸脱する、という当たり前の認識を持てない(持たない)人もいて、
そうした人は、「常識」から不本意にそれてしまった他者を、安易にかつ過激に批判するように思える。
「何かの拍子で明日は我が身」という発想のない奴といる時間ほど、つまらない時間はない。
日本人の持つ社会的な「常識」は、総じて勤勉、控えめ、実直、真面目、潔い、おもんぱかり、などの語彙に象徴される感覚で長い間遺伝してきたが、
いつ頃からか日本人の常識(価値観)の根底にあった儒教的な理念や仏教的死生観などが崩壊した。
それに伴い、他者を評価する個人の物差しが何時頃からか狂い始め、他者への寛容が痩せ細り、他方で徹底的に人をおとしめる現象が見えだした。
溺れる者に手を差し伸べるよりも、棒で突くようなニュースに接するたびに、なぜこんな社会になってしまったのかと慨嘆する。
何が原因か判らないが、さまざまな要因が複雑に入り混じり、これほど息苦しい社会が出現したのだろう。
「やり直しがきく」はずの他者の失敗を、無縁な人間がSNSなどで追及、攻撃する社会が、誰も住み易いとも思っていないのに、
誰もがその大きな流れを止めることが出来なくなっている。
もちろん私個人の日々の生き様も、大河の一滴のように現在の社会を生み出している微小な要因であるが、
流れの中にあっても、社会や世界と自分との結びつきを見ることも、感じることもできないから傍観者のように生きてしまう。
こんなことを考えたのは、松居一代というタレントのニュースが駆け巡っているからだ。
7/6の時点では、その前に放映された「少しおかしい」、「少し病んでいる」言動が、
夫である俳優との離婚に根っこがあるようだと推測されるが、分別が有りそうな年齢の人間が、
夫婦間の秘め事や夫に対する不信や憎悪をあからさまに他人に晒す様は、最も現代的な姿かもしれない。
こうした言動が現代的という時、そのさまは例えば「自爆テロ」とか「ブーメラン」という、よく耳にする語彙で括れるかもしれない。
亭主(夫婦)の恥部を、同じタレントである妻がSNSという最も現代的手段(不特定多数に瞬時に拡散する)で過激に晒せば、
当然二人とも「人気商売」だからお呼びが掛からなくなるだろう。
そこまで考えた行動とも思われないが、自分に醜悪な「暴露」という爆弾を括りつけ、
タレントとしての自分イメージも死ぬが、相手にも大きなダメージを与えるという行動は、宗教的「自爆テロ」を彷彿させるし、
思い通りにならない男と自分を、ゲーノーの世界で同時に殺そうとする「無理心中」にも見える。
過剰な愛情が相手に届かないと別の感情になって増幅されて戻る、という恋愛感情の「ブーメラン」は、
感情が相手への憎悪に変容したり、自分への自損行為となって表れることがある。
ストーカーが前者であれば、自傷行為が後者になるだろうか。
この無残なタレントは自らを自損し、相手にも大きなダメージを与えてなにを求めたのか判らないが、
復縁を求めたにしては一番稚拙な手を使ってしまったようだ。
なによりも、男女関係ほど冷めてしまえば元に戻すのが難しいことくらい、60にもなれば分かると思うのだが・・・。
このタレントの表情や文章をみていると、(夢中で見ているわけでもないが)
愛というブーメランがマトをそれると、思いが強くかつ<閉鎖的>であるほど愛に壊れ、狂うという現代的様相を見せている。
タレントの病み(闇)は深く、深い分だけ周辺に攻撃が広がっていくかもしれない。
病み(闇)の深度は別にしても、現代という時代を象徴する精神的な症状だと思うが、
現代という<読み解けない社会>に本質的な病巣がある分だけ、回復は難しいかもしれない。
「誰もが中流」という意識を持てた日本の社会に、いつ頃からか「貧困」と「格差」が出現し、
政治も手を打てぬまま(政治は全く逆の手を打った!)それらが社会の深層部で増殖し、徐々に中間層に近づいて来ている。
6人に1人が「貧困」という数字は、大きな社会的価値の転換をしない限り、増えることはあっても減ることはなかろう。
こうした社会的不安が、産業革命の時の「社会的病理としての結核」と同じ構造で、
いま「精神病」という新しい「社会的病理」を出現させている一因と言える。
それでも、
愛に狂い、壊れたタレントは、存外私達よりも愛に対して純粋だったのかもしれない。
たいていの大人の男は、こうした湿潤過ぎる愛は苦手だとは思うが・・。
↓緑釉砧花生
この形、この土は当然薪窯で焼くものだが、
今年のGWは諸事情で薪窯が出来なかった。
もらいものの緑釉を掛け焼いたが、これではどうしようもない。
その後で桧垣文の部分を金彩で上絵してみたが、これも思ったほどさえなかった。
まあ私にはよくあること。