他人の不幸
歌舞伎役者の連れ合いが若くしてガンで亡くなった、というニュースが流れた。
連れ合いをガンで亡くした私としては、役者や残された家族に多少の同情も感じるが、
所詮は他人の出来事で、私の場合は周囲からの気配りや同情は気が休まることでもなかった。
しばらくほっておいてほしいという思いだけが強く、同情や悔やみもただ煩わしいだけだった。
歌舞伎役者が周囲の気配りに対してどうなのか知る由もない。
身近な死に向き合い、やるせない心を鎮めるすべはひとそれぞれだから。
名門役者の妻の死は、ニュースを伝える側にとっては大きなネタだったらしく多くの報道があったが、
キャスターの妙に感情移入した語り口や表情に微かな齟齬感があった。
仕事とはいえ、神妙な顔をして「他人の不幸」に立ち入り過ぎだろうという思いがした。
有名無名を問わず、死の重さに変わりはないし、どのように生き死んでも個人としての価値は変わらない。
「市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、
千年に一度しかこの世にあらわれない人物(注・カール・マルクスのこと)の価値とまったくおなじである」『吉本隆明』
私にとってこの言葉はいつまでも<詩>として屹立している。
天才も無名の生涯を終える人も、根源的価値において等価であるという思想の原点に何度救われたことか。
ゲーノージンは職業柄、身内の死すら周囲から放っておかれないのだろうが、因果な商売だ。
ひとの死に際して喪失感のない人間は、その死をあまり語ったり触れたりすべきではない。
「他人の不幸は蜜の味」という。
どう考えても褒められた感情ではないが、よく実感はできる。
敵対する相手や相性の合わない相手が躓いたりするとニンマリしてしまうのは、
こうした歴史的な名言があるから、なにも私に限ったことでもなかろう。
キャスターが感情移入して役者の妻の死を語れば語るほど、その表情に蜜の香りを嗅いでいるような違和感を感じたのは、
私がひねくれているからだろうか。
人は付き合いの濃淡によるが、直接知っている人が不幸に躓くと、
ある時は同情し、またある場合はかすかな蜜の味を味わうことになる。
最終的に他人の不幸が甘くなるか苦くなるかは、その人に対する好悪感により変わってくる。
相手に好意を持っているか、そうでないかによって感情が両極に揺れるのだが、
人知れずとはいえ、やはり不幸の蜜の臭いをかぐ様は卑しいと思う。
情報化社会では、好むと好まざるとに関わらず「他人の不幸」情報がどんどん入ってくる。
本来自分と全く関係のない「他人の不幸」は、知る必要もない彼岸の出来事のはずだが、
さもしいかな、ネットなどを駆使して「他人の不幸」情報をなるべく詳細に知ろうとしてしまう。
我に返る都度、その姿は情けないと思うが、
他方で人間の観念は自然な過程として、上昇を不可避なものとし、より遠方の知識や情報を求めてしまうから、
さもしいだけでは括れない観念の動きだと肯定もする。
人生上、何ら接点のない他人の不幸を詳しく知ろうとするのは、
「好奇心」という人間特有のプラスとマイナスの作用を持つ精神の本源的な活動だろうが、
不幸が他人のものであるときは甘くても、わが身の不幸は苦いという当たり前のことをその時は忘れている。
また、わが身の不幸が他人に蜜の味を提供すると思うと、到底我慢できるものではないだろうから、
やっぱり他人の不幸の蜜味は味わってはいけないのだろう。
「他人の不幸」を覗きたがるのは、自分がしあわせでないから、とは誰だったか?
↓緑釉壺
もらいものの釉薬を赤土の生地にかけた。
緑釉に合う土は一般的には鉄分の少ない白系だから、赤土では当然こんな色になる。
緑系の釉薬にはあまり興味がないから、残りの薬が終わったら焼くことはないと思う。
現物は写真ほどには暗くない。