末は60日
例によって、何処で出会った言葉か記憶が定かではない。
調べたが出典も定かではない。
意味は,「人は死に辿り着く際、周囲に60日間ほどは世話をかけるものだ」と記憶している。
別段60日が、100日になろうが150日になろうが、死が垣間見えるような病を得た人間は、
自分の死をコントロール出来ないのだから周囲に世話をかけても仕方がないと思う。
誰もが自分の死にいたる過程で、周囲の人にあまり面倒を掛けたくないと考えているだろう。
「ぴんぴんころり」が理想の形だとする意見に異議はない。
しかし、自分が願ったような死を迎えられないのもまた多くの周囲の現実が示している。
その意味でも、<死>は誰にとっても不本意なものだ。
私自身は、「末は60日」というこの言葉に出会って結構救われた。
末は誰かの世話になり(場合によっては他人ということもあるだろう)、ある期間は周囲を煩わせても、
それが一般的な人間の末期の姿だという認識は、<普通に死ぬ>という考え方の範囲を拡げてくれると思う。
だが60日では、周囲に残される時間としては短いようにも感じる。
100日であろうが、150日であろうが、私の場合は父の死に際し時間の長さは感じなかった。
「末は60日」というが、一日でも長く生きて欲しいという家族の当たり前の思いはいつだって強い。
また、60日というのは時間は現代医学の水準からすると訂正されるべきと思った。
今の自分の立ち位置からすると「末は300日」位かとも思うが、この数字の根拠は自分でもよくわからない。
おそらく、今おかれている私を取り巻く諸々の条件(現実)から導かれた日数なのかもしれない。
もちろん看取る側の立場としてだが、死ぬ側の立場になるといったいどれくらい欲しいのか(必要なのか?)、
判断が付きかねる。
どうも私の「独白」は<死>に拘った文章が続くが、残り時間が漠然とではあれ見えてくると
(見えるような気がすると)、
今ある<生>を充実させたいと思うから、<死>を考える機会が多くなる。
哲学的に、思想的に、宗教的に、人間にとっての死は今までに殆ど考察されているのに、である。
私にとって「私の死」は何かということを根拠付けたい欲求は深まるばかりだ。
(そば釉花生)