終活

お知らせ

「身体は変えられる」というCMがあるが、健康を気遣う習慣がないから身体にいいことも殆どしていない。

とっくに健康を気遣い運動などをする必要がある歳だとは思うが、仕事の多忙を自分への言い訳にして、そのうち、そのうちでここまで来た。

だが、ここ10年ほどで理由は分からないが、身体が勝手に変わった。

ひとつは去年まであれほど悩まされていた「花粉症」が今年は全く発症せず、前もって準備しておいた売薬の封を開けることがない。

20年以上立派な花粉症患者だったが、今年は全く症状が出ないので自分でも不思議だ。

おかげで例年よりも仕事がはかどる気がする。

身体に何があったのか不明だが、何かをきっかけに身体が勝手にかわったのだろう。

老化だろうか?

 

 

そういえば、50歳過ぎてから「猫舌」になって、今では熱いものがすぐには食べられない。

ふたりの子供がまだ小さかった頃、どういう訳か二人とも「猫舌」で、親は熱いものが何でもなかったから、

どちらの血を引いたのか訝しがったことがあったが、今では二人の子供は「猫舌」が治ったようで何も言わない。

突然「猫舌」になって、何か体質でも変化したのかとも考えたが思い当ることはない。

 

 

大病を患って入院したという経験がないから、健康の維持には無関心だ。

唯一やっていることと言えば、早く寝ることくらい。

加えて中小企業のシャチョーという仕事は、日々あまり体を動かすこともなく、思うようにならない数字との格闘だから、

デスクワークが多く、かつ愛煙家だから煙草を吸いながらキーボードをたたくという時間が大部分で、

これでは健康に良くないと誰だって判る。

 

 

同年代の人が健康維持のためか、ウォーキングをしている姿をよく見かけるが、

私の場合、仕事が終わった後は食事もほどほどに陶芸をやるか本を読むかで、

それすら時間が足りず焦るほどだから、とてもウォーキングなどできそうにない。

「人は足から死んでいく」とよく聞くが、私の場合一日3000歩ほどしか歩かないから、

もう徐々に足は死に始めているのかもしれない。

肌年齢などと言うが、私の足年齢は十分に老人だろう。

だいたい、運動をする人に「身体を鍛えるより頭を鍛えた方がいい」とすぐ皮肉を言うタチだから、

自分の身体にも他人にも始末の良い方ではなかろう。

 

 

藤沢周平ではないが、身の回りのものを徐々に減らしていって、何も残さず死にたいと思うが、

そうやって死ぬには、色々片付けなければならないことが多すぎてとても思う程にはいかない。

身の回りのものを徐々に減らしてといつも思うが、幼いころから貧乏育ちで必要なものも与えられなかったから、

いまになっても「不要だが使える物」をなかなか捨てることが出来ない。

「不要だが使える物」を誰かにあげようとしても、豊かな社会だから欲しがる人もいない。

きっと身辺整理もそのうち、そのうちと考えているうちに最後を迎えるようになるのだろう。

 

 

生きているうちに死の準備をすることを最近では「終活」というらしい。

私もいつ逝っても悔いが残らぬよう(実際は誰だってそんな死に方は出来ないだろう!)身辺整理をしておきたいと思うが、

それとて日々の雑事に追われてままならない。

生者から見たら、死者は誰だって多かれ少なかれ「悔い」が窺えるから死が不当なのであって、

なにより「悔いが残らぬように」というが、「死ねば死にきり」で死者に悔いなどあるはずもない。

生の側から見れば「悔いが残らぬ死を」という思いは当たり前に見えるが、

死の側から見ればやっぱり「死ねば死にきり」なのだろう。

 

 

不慮の事故や突発的なことに遭遇しない限りは、病院でチューブをまとって死を迎えるのが一般的だから、

その時悔いが残らぬようにということかもしれない。

だが、これとてどうも信憑性に欠けると思われる。

チューブをまとって死期を漠然とでも意識する時、後に悔いを残さぬように動くだけの精神的エネルギーを持てるか疑問だ。

 

 

多くの浮名を流し、3人の女に子供を作った松方弘樹が最後の内縁者に看取られ死んだ時、

やじうまニュースによると、残った財産も殆どなく、6人の子供の誰一人にも看取られることなく死んだようだ。

豪快に生き、昭和最後のスターとまで言われた男の死にざまは、

ある意味藤沢周平の言う身の回りのものを(前妻や子供も含めた人間関係も含むのだろう)徐々に減らしていって、何も残さず死んでいったのだが、

彼の生前の華やかさと比べて、一抹の寂しさを感じるのは私だけだろうか?

 

 

そういえば、同じ東映スターの「白馬童子」山城信吾も生前の派手な生き方と反比例するように、

たしか弟ひとりに看取られ老人ホームで死んでいったが、昭和といういい時代にピークを極めた役者たちには、

こういう死も冥利に尽きるという思いがあったのだろうか。

ニュースで知る著名人の死に至る過程と、その後マスコミが掘り起こす「裏側」というやつを見ると、

普通に生きて普通に死ぬことが、実はなかなか難しい行為だと知らされる。

 

 

私などは「普通に死ぬ」というイメージがなかなか描けないが、どういう臨終を迎えたいと思い描いても、

死出の過程に入ってしまうと周りに委ねるしかないのが現実だから、実際はどうしようもないと思う。

死は自分のもののようで自分のものではないとある詩人が言ったが、最後は結局他者に委ねるしかないからだろう。

 

 

 

↓なんと呼んでいいか分からない釉薬

表面がカセた感じはいいと思うが、土によって表情が結構変わってくる。

この茶碗は抹茶の緑を引き立てるかな?