「衆愚」の出自

お知らせ

「衆愚」という言葉が好きになれない。

歴史の悲惨は、指導者の誤謬とそれを黙認する大衆の愚昧(衆愚)の結果だという側面があるにしても、

「衆愚」の対極若しくは上位概念として「知識人」や「指導者」「選良」などを持ち出し、

2極の構図の中で世の中の出来事や現象をとらえるという「方法論」は、否定されるべきだと考えている。

バカな「衆」がバカな指導者を生み出したから、歴史の悲劇が繰り返されるという評価は、

判り易い分だけ「衆」の本質を見失ってしまう気がするからだ。

 

 

ドナルド・トランプが米国大統領に就任して以降、彼の話題が毎日ニュースに登場する。

米国大統領という立場が世界に与える影響が大きいからだが、加えてこの男の就任以来の言動が色々物議を醸しているからでもある。

現時点で伝えられるニュースや言動を見ると、米国大統領としての資質に欠けるようにも思えるが、

少なくとも選挙という制度の洗礼を受け登場した大統領である以上、国民からそれだけの支持を得たということだ。

 

 

政治の究極の目的は、国民の幸福や豊かさの実現にあると思う。

(もちろん、そんな理念を持つ政治家というのにあまりお目に掛かることはないが。)

トランプ大統領からはその為の政治理念や思想・理想が全く語られず、物足りなさを禁じ得ないが、

「米国の富の再構築」が米国民の幸福の源泉だという政治理念だけはあるようだ。

経済的な豊かさが限りなく幸福を生むという現実は、もちろん否定するものではないが、

世界における米国の立ち位置からすると決して十分ではない。

 

 

米国民の今回の選択が将来大きな禍根を生んだとしても、世界はこの選択を甘受するしかない力関係の上に成り立っている。

願わくば、米国が仕掛ける「戦争」が経済分野だけであってほしいと思うだけだ。

間違った選択の果てに多くの血を流してようやく平和に漕ぎ着け、つかの間の平和の後にまた間違った選択を繰り返すのが歴史の謂だから。

「歴史に学べ」というスローガンは、実は私たちが如何に過去の歴史を学んでいないかという皮肉な現実をあぶりだしている。

 

 

彼を支持した米国民の判断を「ポピュリズム」と批判する論調が多くのマスコミに登場したが、

「ポピュリズム」の大きなうねりは別段米国に限ったことでなく、EC内にも顕著で例えば「自由の国・フランス」でも、

右派の国民戦線のルペン党首が大きく支持を伸ばし、次期大統領の座を狙う位置につけているというニュースも伝わってくる。

「自由・平等・博愛」の理念を掲げた「自由の国・フランス」でさえ、国民の不満という現実の前に崇高な理念がかき消されようとしている様は、

若い頃に「自由の国・フランス」に思い入れた私にとって、歴史が逆戻りしているような違和感が払拭できない。

歴史はいつも振り子のように左右に振れ、同じ間違いを繰り返しながら蝸牛の歩みのように進み、小さく小さく改善していく。

流した血や悲劇に見合う程の改善ではないが。

 

 

「ポピュリズム」の定義付けは置くとしても、何故私達は判り易いスローガンや考え方、価値観に幻惑され、大きな流れに乗ってしまうのだろう。

冷静な判断や理想、理念を放棄し、簡単で判り易い結論こそものごとの本質であるように考える私達の姿は「衆愚」の典型ともいえるが、

世界中で日々起きている殺し合いや傷つけあいの根底にあるものは、私達自身の「衆愚」と「無関心」にその源があるのだろう。

「無関心な人々を恐れよ。彼らはすべてを黙認する」とは、誰の言葉だったか?

 

 

人の世に生起する事象について、その本質を見極めようとすると私たちは膨大な時間と労力(努力)を必要とする。

生活者として一日の大部分を、仕事とそれを取り巻く人間関係に追われ生きざるを得ない私たちにとって、

眼前に生起する事象の本質を掴もうとすれば、生活とは別な時間と立場を意識的にこしらえ、事象に相対する以外方法がない。

尊敬する詩人はこの別な時間と立場を「25時間目」という表現で語り、日々の生活圏とは異なる「25時間目」の作業(思索)の必要性を語った。

つまり生活の価値を基盤としつつ、その上に哲学や思想の砦を構築しろということだろうが、凡人・凡夫にとっては至難の業だ。

 

 

私達の思考は「24時間」の範疇で生み出される価値や判断に依拠してしまい、ものごとの本質を見極める思考力が圧倒的に不足していて、

事象の入り口でありきたりな判断を下し、その深層にある問題の本質を殆ど見ようとしない。

深刻な事件や現象があっても、対岸の火事の如くたいてい底の浅いシロクロ判断を口にするだけで、

実際はグレーの域にある問題の本質(色合い)を無視し、ただ判り易いシロクロ判定しているだけの言葉が周りに氾濫している。

「そんなことは300円の週刊誌にも書いてある」と半畳を入れたくなるような内容を声高に語る人が圧倒的だ(もちろん私も含めて)が、

それが人の世の実態といえばそうなのだろう。

 

 

私たちが生活するという基本的な姿は、朝起きて職場に入り、仕事が終わったら酒でもくらってストレスを解消し、家族のもとでTVを見たり、趣味の時間を持つというものが普通の日常パターンであるから、非日常の「25時間目」の必要を感じることもなく今日も一日を終わるのだが、

「衆愚」の源泉はこうした中から生まれるのかもしれない。

「衆愚」から隔たろうとすれば、「25時間目」を作る以外方途が無いのは分かっているのだが・・・。

 

 

私達は殆ど誰もが、生活の価値や感情の延長に人の世の事象を捉えて評価(判断)を下すが、

当然時間的、空間的に限定された存在である私たちの肉体は、観念によってしかその拘束を飛び越えることが出来ないから、

殆ど「25時間目」を持たないで生きる限り普遍的価値や判断を生むことはない。

私たちが持つ「衆愚」の出自は、おそらく「25時間目」を作り必要を感じることのない日々の在り様と、

生活上の判断の延長にものごとの本質をとらえようとする習慣が根底にあるからだろう。

 

 

 

↓それなりによくできたと思う青瓷作品

一つ一つを詳細に検討すると貫入の数や入り方など

改善点の方が多いが、少しだけ自信がついた。

青瓷の一番のポイントは施釉だと言ったプロがいたが、本当に実感した。