私の陶芸
やきもの若しくは茶道の世界で「名碗」といわれる茶碗の条件の一つは、器の中が大きく(広く)見えるものだと言われている。
実際大きく(広く)見えるだけなのか、それとも見た目どおり広い空間があるのか、
歴史上の「名碗」といわれる作品を手に取ったことがないからよく判らない。
また「「名碗」の中には宇宙がある』とよく耳にする。
当然比喩だろうが、「名碗」を手にした機会と素養のない私には、宇宙が見える茶碗に出会ったことがない。
生前、茶碗作りの名手として名を馳せた加藤唐九郎は、あまり杯(ぐい呑)を作らなかったが、
「俺のぐい呑には一合入る」と豪語している記事を読んだことがある。
さして大きくもないぐい呑に、本当に一合入るのかと驚いた(疑った)ものだが、その真偽は判らない。
ぐい呑は本来茶碗を少しだけ小さくしたもので、茶碗と同じ条件を求められるから唐九郎の話はたぶん本当かも知れない。
長年素人としてやきものを作ってきたが、茶碗を作るのはあまり好きではない。
茶碗の世界は約束事が多過ぎ、かつその中で個性を出そうとすると生半可な技術や創造力では太刀打ちできず、
形が出来上がったその時はいいのだが、翌日それを見ると自分の才能のなさとセンスの悪さにうんざりする。
うまく出来たつもりでも、何時か何処かで見た茶碗と似たようなもので、下手な真似ものに見える。
本当に茶碗は難しいものだ.
茶碗はやきものの世界では最上位に位置するものだから、当然価格も他の物に比べ高く設定されている。
茶道という世界を背負っているからだと思うが、私にとってはあまり気持ちのいい現象ではない。
まだ若い作家たちが、何時か何処かで見たような茶碗に、「茶碗だから」と他の作品より割高な値段をつけているのを見ると、
茶碗自体が卑しく見えてしまう。
「人として成熟しなければ、成熟した茶碗は作れない」と、茶碗作りの際よく言われる小言風の意見まで言うつもりはないが、
若いうちから茶碗ばかり作っている作家の茶碗に感動したことは一度もない。
「孤高の天才」とも「鬼才」とも言われた岡部嶺男は、自らの青瓷茶碗に「茶」の文字を入れなかったが、
茶碗を作る若い作家にもこれくらいの矜持はもって欲しいものだ。
岡部嶺男を模して「指跡のある青瓷茶碗」を作る若い作家が多いが、彼らの茶碗はそれだけでパスしたい。
「指跡のある青瓷茶碗」は、あの独創的な高台があってこそのもので、指跡だけを模倣してもしょうがない。
茶碗に比べ、花入れ(花生け)、花瓶は作る側の自由度が大きいと思う。
どのような形であれ、器が花を引き立てる、または器自体で(花がなくても)美を表現していればいいから、
茶碗に比べ約束事が少ないように思う。
私は花入れ(花生け)ばかり作っているが、花瓶は誰(どこの家庭)にとってもそれほど多く必要なものではない。
それゆえ、作る数に比べて個展などでもあまりさばけないのが現実だ。
そんなわけで、自分だけが気に入っている花瓶が、家の中だけでなく、ベランダから家の裏の軒先まで林立している。
数えたこともないが、多分300以上あるはずだ。
これからも花瓶は作り続けるだろうから、陽の目を見ない作品が溜まっていくだろう。
私の通夜の時にでも受付の横に置いて、好きな人に持って帰ってもらおうかと考えているが、
きっとたくさん余ることだろう。
縁のある人間が勝手に処分してくれと思う。
「身の回りの物を少しづつ片付け、何も残さず死んでいきたい」とは藤沢周平であったか?
誰もが願う姿かもしれないが、その実とても難しいと考えている。
(伊賀自然釉花生)