金が敵の・・
短歌(?)の世界で、下句に「それにつけても 金の欲しさよ」という定句を設け、
上句の17文字を作るとそれなり「歌」として成立するという「言葉遊び」を何かの折に知った。
この下句は品性に欠けるかもしれないが結構万能な句で、少し遊んでみるとその収まり具合の良さが判る。
例えば、芭蕉の有名な句(何でもいいのだが)「荒海や 佐渡に横たふ 天河」に「それにつけても 金の欲しさよ」の句を付けると、
壮大な自然詠の歌が180度転換し、宙を見つめる眼差しが作者の日常に移動して人間臭い芭蕉の姿が映し出されはしないだろうか。
上句と下句の場面の大胆な転換のスピード感や緊張感、聖と俗の対比の妙などがあると思うのだが・・・。
与謝蕪村の句「さみだれや 大河を前に 家二軒」に「それにつけても 金の欲しさよ」を付けると、
河岸に建つ貧しい小さな家の住人に思いを馳せる蕪村の優しさと、自身の生活の不如意に心を悩ます詩人の姿が浮かぶようだ。
一茶の句(これも何でもいいのだが)「これがまあ 終の棲家か 雪五尺」「それにつけても 金の欲しさよ」という句にすると、
強欲で狡知にたけ、決して金に綺麗ではなかった一茶のまさに一茶らしい肉声を聞くような気がする。
この言葉遊びはあまり褒められたものではなかろうが、「それにつけても 金の欲しさよ」という思いは、
この世に生きる人間の普遍的な思いではなかろうかと思う。
少数の例外を除き、誰もがお金を欲しがるのは今の世の中でお金が一番便利だからだろう。
金のある時の便利さや楽しさは、誰だって何度かは体験しているだろうし、
ない時の不便さ、苦しさも殆ど誰もが味わっていることだろう。
有れば便利で無ければ不自由なものの代表がお金かもしれない。
子供が小さい頃、お金がない時の不便さについて話したことがある。
金がない場合の不便さを、冬の寒い雨(雪)の中を駅まで行く場面で説明した。
金が有ればタクシーで時間もかからず寒くもなく駅まで行けるだろうが、
無ければ雨の中をバス停まで歩いて行き、バスを待ち駅に向かう。
当然寒さも辛いし時間もかかる。
金の多寡の違いはこのようなものと話した。
まあ子供向けのたとえ話。
この違いを子供がどう捉えたか不明だが、金銭的な貧富の違いとその先にありそうな(!)幸福について、
子供に考えて欲しかったから現実性のあるたとえ話をしたつもりだ。
そして、傘をさし徒歩でという場面に不便さや辛さを感じなければ、金の多寡は本質的な問題ではなくなると付け加えた。
真冬の雨(雪)の中を徒歩でバス停に向かうことに苦痛を感じず、例えば周囲の風景などを楽しむことが出来れば、
若しくは、その時間を想像(創造)の世界に飛翔できれば、貧しさという不便さも生活の中から消滅すると話した。
ただ、金があれば便利な生活を送れるから多くの金を入手する努力をするように、とは言わなかった。
便利なお金のある生活が幸福に直結するとは思えなかったからだが・・・。
金がないことが生み出す不便さや苦しさ、悔しさや惨めさなど、
総じて貧しさが生み出す「負の思い」を私たちの心が持つことがなければ、
私たちの心がそうした「負の思い」を無化できる<価値>を生み出せば、
私たちはもう少し幸福に生きられると思う。
今では死語にかもしれないが、「金が敵の世の中」という言葉を子供の頃よく耳にした。
何時の時代も貧乏人にとって金は敵で、味方には決してならないから言いえて妙だ。
その言に倣えば、殆どのチューショー企業の周りは敵だらけとなる。
物心ついたころ、会社を起こしたばかりの父母が金策に苦しんだことが何度かあった。
その姿は今でも鮮明に記憶している。
入金時期に狂いが生じたのか、高利貸に借金に行き頭を下げる父母の姿は、
なぜその時私が同席していたのかは不明だが、いつも昨日のことのように鮮明によみがえる。
父母はどうしてこれほどまで低頭するのだろうと子供心にも辛い経験だった。
そうした経験もあって、お金を基盤にした豊かさと貧しさについて、いつも考えておく必要があると思っている。
そして、その先にあるだろう(!)幸福についても。
チューショー企業主の辛いところは、毎日毎日お金のことを考えなければならないところだろう。
会社が立ち行かなくなれば、企業主個人の生活や幸福など有ったものではない。
経営の破たんイコール個人の生活の崩壊というのがチューショー企業主の宿命だから、
経営はすべてに優先せざるを得ない。
その意味でもチューショー企業主にとってはいつも「金は敵」となる。
金銭的に豊かであっても満足感を得られないという人生は、残念ながら体験したことがないから判らない。
この手の人物は映画や小説に登場することはあっても、金があり過ぎても不幸だという人の姿は身近にはない。
金は多くあるが、軽い奴や嫌な奴、狡い奴、総じて友人にはなりたくない奴は多くいるが、
貧しくても幸福感に満たされている人(と私には見える)には出会ったことはある。
この二者の違いは何だろう。
富者に無く、貧者にある幸福というものがどのようなものか、そういう生き方に憧れるからイメージは描けるが、
いざ「生き馬の目を抜く」この世の中で描こうとしてもどうも具体性に欠ける気がする。
要するにイメージできても実現できないということだろうか。
それとも、現代では貧しくとも幸福という生き方が殆ど成り立たないからだろうか。
人の究極の幸福はおそらく「生まれ、働き、老いて、死ぬ」というサイクルの中で、
個人の<価値>をどう描き、<価値>の根幹をどこにおいて暮らすかという点に収れんするだろうが、
私にとって貧しくとも幸福に包まれた人生と見える人は総じて、
仕事や私生活などの場面で知識や情熱、行動力、向上心、他者への思いやりなどが横溢した人ばかりだ。
そして彼らの生活には実利性の追求(要するに合理的生き方)はあっても、他人に自分がどう映るかという視点はあまり見られない。
ライフスタイルと言われるものがシンプルな人ほど幸福に見えるのは、
私の生き方がそうした生き方から大きくずれているからかとも思う。
チューショー企業の経営はごった煮の料理みたいなもので、懐石やコース料理のようにスマートにはいかない。
そうした基盤の上に成り立つ私生活がシンプルに行くわけもない。
かといってそれほど不自由も不幸も感じないのは、私の感覚がもう摩耗してしまっているからかもしれない。
↓今の時点で私が作った青瓷作品で一番いい出来のもの。
手の内を明かすと釉薬は三成先生のものだから発色がいい。