究極、四文字

お知らせ

仏教では、「生老病死」を人の逃れられない苦しみと定めているようだ。

四苦八苦の「四苦」がこれにあたる。

確かに、「生まれること」、「老いること」、「病になること」、そして「死ぬこと」は、宗教的、哲学的、文学的、思想的立場から考察すれば「苦しみ」と定義付けられよう。

仏教の教義に異を唱えるつもりはないし、宗教にそれほど深い理解があるわけでもないから首肯するしかない。

生まれることに対して太宰治のように、キリスト教的な原罪意識からか、「生まれてすみません」と言う人間すらいる。
だが、私のような凡人は生まれなければ、「老いること」も『病になること」も「死ぬこと」も経験出来ないから、

生まれたこと自体は「老・病・死」ほどの苦しみではないと軽く考え、「生」とは「生きること」と読み替えている。

一日の大部分を「チューショー企業のシャチョー」として生きることは、実際のところ「苦しみ」以外の何物でもない。
「死ぬこと」は、誰もが個人としての自分の死を経験できるわけではないから、共同の観念もしくは他者の死を通して認識、経験しているのだが、

自分の意志によって回避できないから苦しみというのかもしれない。

しかし、現実的には「老い」と「病」が生きている私たちの不安の種=苦しみになるのだろう。

どうも自分の死は漠然としすぎている。

 

はじめ「生老病死」という言葉は、人の一生を端的かつ簡潔に表した言葉と思い、「人生も究極的には4文字」と感動した。

実は今もその思いは変わらない。

「生まれて生き、やがて老い、病を得て、死ぬ」という生き方が万人共通の摂理で、誰もが別の生き方はないのだと思うと、

不思議だが、生に続く老いと病と死を受け入れる覚悟ができるような気がしてくる。

 

父が老いても体力を過信して農業にのめり込み、熱中症で倒れて100日余を入院し、ゆっくりと死に向かって行った時、

「老・病・死」の流れを身をもって私に示してくれた気がした。

亡くなるまでの数年間で徐々に老いて行き、病を得て死んでいった姿は、死までのプロセスを鮮明に示してくれ今でも刮目している。

父は100日余をかけ徐々に死に向かって行ったが、私にとっては いい死に方だったと思うし、できれば父と同じような死を迎えたいものだ。
日本人の男性の平均寿命より少しだけ長く生きたことも、いかにも普通に生きた父らしかった。

 

入院中の父の姿で、辛いだろうと思ったことは、タンの吸引と老人性の肌乾燥から生まれるかゆみの時だった。

無意識に点滴装置をはずしてしまうということで、両手の拘束があり、家族のいるときだけ拘束を解かれたが、

その時はすぐに身体を掻き始めた。

こういう時、きっとかゆみ止めの薬など効いてはいないのだろう。

 

痰の吸引は辛いというが、愛煙家の父も非常に辛そうだった。

父よりヘビースモーカーの私は、きっとその時になったらもっと辛いだろう。

これだけは是非とも勘弁願いたいが、タンの吸引方法だけは医学的進歩が見られないと思う。

それでも、その時のために禁煙しようとは考えないから、まだ死への準備は手付かずだ。

 

 

(尊式花生)

写真HP更新用 074