家は人を縛るきに!
長く坂本竜馬の言葉だと記憶しているが、いつ頃記憶したのか、記憶が正しいのか不明だ。
まあ、誰の言葉であっても本質を突いていることに変わりはない。
一般論としてこの場合の「家」とは、〈対関係〉を基盤とした共同性のことを言うのだろう。
家族という共同性の中で人が喜怒哀楽を繰り返しながら濃密な時間を過ごし、ある場面においては論理で割り切れない複雑な感情に苦しむのが、「家」という共同性の普遍的姿と言ってもいい。
人が人である間は、家族と社会の共同性は常に桎梏として個人の生に付きまとう。
「俺は木の股から生まれたかった」とは,私の友人の言葉。
彼は母親への愛憎に苦しみ、母親と絶縁するため痛々しいほど苦しんだが、どのように自分を追い込んでもとうとう心の中の母を棄民できなかった。
その姿を近くで見ていたとき、「家」と言う対関係の共同性の強固な姿を見たように思う。
「捨てて捨てえぬ心地して」喜び,苦しみ、悩む場が家族の本質と言える。
「木の股」から生まれたら気楽だろうが、心の拠り所がないかもしれない。
さて60を過ぎた今、対関係を基礎とした共同性としての「家」もそうだが、物体としての「家」や「土地」も人を縛ることに気付き始めた。
家族の営みが繰り返された家や土地は、それ自体が他人の家や土地に無い固有の思いが詰まっているからなのか、単なる「物」ということも出来ないが、家族の誰もが住まなくなった家であっても、それらがしばしば人を拘束する。
家の空気の入換えをはじめとして、掃除、修理、固定資産税の納付、火災保険などの支払い等々、そこに家や土地があるだけで我々には社会的な義務が生ずる。
社会的な義務とは、殆どの場合お金の負担とイコールになるから厳しいものだ。
今では、こちらの方が「家は人を縛る」という言葉の本質かなと思ったりもする。
まったく今の時代、息をしているだけで金が掛かる。(これは私の感想)
(そば天目花生)