ヤマモモの木
会社の倉庫入り口にヤマモモの木がある。
どういう経緯でそこに生えているのか知らないが、風格ある大木で驚くほど樹勢がいい。
そのヤマモモが今年、過去に例がないほど多くの実を付けた。
10円玉位の実が鈴なりで、暫く実が落ちるのにまかせていたが、
近所のスーパーのヤマモモとは比較にならない大粒なので、思い立って会社でジュースを作り始めた。
40年近くこの木を見ているが、初めての収穫作業になった。
社員が収穫し、事務方に手伝ってもらい、大バケツ8杯の実を3日がかりで煮込んでジュースに。
瓶詰めにして社員それぞれが持ち帰ったが、残りは夏の来客用の良いおもてなしになる。
勤務時間中にこうしたことが出来るのは、チューショー企業のいいところ。
昨日・今日・明日と本業そっちのけでジュース作りに熱中している。
肥料も与えず手入れもせず、それでも実を付ける自然の力は驚嘆以外の何物でもない。
こうなるとヤマモモの隣に植えてある柿や蜜柑にも期待が高まるが、消毒も肥料も与えぬ主に木々は応えてくれるだろうか?
気付くたびに成長、変化している木々を見るたび季節の移ろいを教えられていたので、これ以上は望むべくもないが・・。
藤沢周平の「静かな木」という短編に欅の大木の佇まいに癒され、励まされる停年過ぎの(家督を譲った)武士が描かれているが、
風雪に耐えた大樹に心を寄せ、時に励まされ、安らぐ心の在り様は日本人特有の感覚ではないだろうか。
会社のヤマモモの木も、たかが一木、されど一木か。
当たり前だが、ひとには歳を重ねてしか見えないものもある。
「すべての自然に神が宿る」という古来からの日本人の自然観は、
「神道」の教義もさることながら、日本的自然に育まれたもっと広義の歴史的感受性であろう。
仕事に追いまくられ、自然に対して心を寄せた記憶はあまりないが、近ごろは川の流れや雨風の音、木の佇まい等に気持ちが惹かれる。
早く「雨の日も、風の日も」素直に受け入れられる生き方に到達できればいいのだが・・。
こうした心境が老いの兆項なのか不明だが、老いとは自然へ徐々に心を寄せる過程を言うのかもしれない。
とすれば老いもマイナスだけでなく、一面では心豊かな時間の流れの始まりなのかもしれない。
少しずつ自然に親しみ近づきながら、やがて自然という<無>に帰ることが死の姿のひとつと思うようになってきた。
今まではさして価値が有ると見なしていなかったものの価値に気づくことが増えてきた。
また逆に、価値有るものと思っていたものが、大したものでもないと感じることもある。
仕事を最優先に生きて来た私の中で、少しずつ確実に「価値観の転換」が始まっている。
私の人生もどうやら第4コーナーに入ったようだ。
ゴールが奈辺にあるのか判らないから、追い込みの鞭を入れるタイミングは掴めないが、
出走馬は私一人だから「競いの鞭」は必要なかろう。
都都逸じゃないが、子供の頃から「水の流れを見て暮らす」生き方に憧れていた。
あまり人と接することなく、日に何度か水の流れに心を寄せるような生き方。
子供時分からこれだから、資質的に人と交わるのが嫌いなようだ。
チューショー企業主としては間違いなく失格!
(焼き締め壺)