巷に雨の降るごとく
今年も梅雨入りした。
当たり前だが、季節の歩みは人の喜怒哀楽に関わりなく着実にその歩を進めていく。
時間の流れは止まることがないから「救い」であり、また「絶望」かもしれない。
「巷に雨の降るごとく わが心にも涙降る」とうたったのはヴェルレーヌ(堀口大學訳)だったが、
わが心に降る涙は、詩人の心に降り注いだ「ゆえしれぬかなしみ」でなく、仕事の工程が狂うというまことに現実的な涙だ。
月曜日から予定していた国道414号の夜間作業が、雨により工程の遅れが生じている。
雨を見越した工程を組み立ててあるから、全体工程は大きく狂うことはないが、
それでも夜間作業特有の緊張した雰囲気が休工日でも続くので、ストレスは溜まる。
夜間作業は昼間に比べてもトラブルが多いし、危険性も増す。
その分、終わった後の解放感は格別だが、まだ始まったばかりでこれからが本番になる。
暫くはストレス三昧の日々かな。
チューショー企業主に仕事上のストレスは付き物だが、変に几帳面な性格ゆえ、
感じなくてもいいストレスを自分で生み出してしまう特性がある。
そういう自分だから受け入れるしかないが、「私自身が時に付き合いにくい私」だから、他人はもっと付き合いにくいだろう。
ま、狭い人付き合いも悪くはないけどね。
唄の文句ではないが「別の生き方があったのではないか」と思うことがある。
別の生き方という時、当然別な仕事という意味になる。
誰だってそうだろうが、生き方の中心は私の場合やっぱり仕事になる。
還暦過ぎの人間が考えることでもなかろうが、ふと後ろを振り返る秘かな遊びのような感覚だ。
東京でサラリーマン生活を続けていたら別な人生であったろうと想像する遊び。
子供に「サラリーマンを続けていたら、父は仕事は真面目に頑張ったから最低でも常務くらいには・・」と言うと、
いつも「それ聞いた」とさえぎられる。
父親は、「あなたたちの親ではない別な人生」を夢想しているのだが、子供はすぐ現実に引き戻す。
「たまたまが一生になる」とは誰の作品にあった言葉だったか。
今の仕事に就いたのも、考えた末のことでもあり、「たまたま」選択した結果でもある。
今ではどちらでもいいと考えるのは、この仕事が私の運命だったと思うからだ。
どうせだったら、チューショー企業のシャチョーでなくて大企業の社長をやりたかったが、
「たまたま」縁がなかったと思うことにしている。
人生は「たまたま」の連鎖で形作られている。
たまたまの選択結果の積み重ねが、どうやら人生そのものになるようだ。
「別の生き方」を選択できるようで、実はそれほどの選択肢が横たわっているわけでもないのだろう。
そう考えると、ストレスの多いチューショー企業のシャチョーが私の人生そのものの形なのだろう。
「まァ、愚痴は言うまい。結構いい思いはしたんだし」
奇人・宮谷一彦の作品の中にあった死にゆく主人公のセリフ。
題名がどうしても浮かんでこないのはよくある高齢者特有の物忘れ!
私は死ぬ時、こんな粋なセリフが吐けるかな?
(灰釉柑子口瓶)