ひとは、つらいよ その1

お知らせ

読みたい本は、自分で購入して読むことにしている。

陶芸関係の大型本は図書館から借りるが、図書館のいいところは個人では高価すぎて賄えない大型本が全巻あるところ。

最近は好きな作家達が鬼籍に入ってしまい、単行本を買うことは殆どなく文庫本ばかりになった。

今の時代は新刊本の絶版スピードが速く、機会を逃すと文庫本すら入手できないという不安があり、

「ツンドク」も読書のうちだと思っているから本をよく買う。

10年以上前に求めた本を引っ張り出して読み感動することも良くあるから、本購入にブレーキは掛けづらい。

 

 

余談。

私が死んだのち、遺産整理で子供に負担をかけるだろうと思うことに「本」、「作家のやきもの」、「私が作ったやきもの」の処分がある。

これらの財産価値はほとんど無いから尚更始末も悪いだろう。

高村光太郎ではないが「死ねば死にきり」で、子供がどう処分しようと勝手だが、50年ほどの間に購入した本には、

いま読み返しても感動したり、生きるヒントになる作品も多いから、子供にも目を通してほしいという思いがない訳ではない。

それとて子供次第。興味が湧かなければ古本屋か資源ごみにでも自由にと思う。

「作家のやきもの」はどんどん使って、割れたり欠けたりしたらまた次を使うということでいい。そのうち無くなる。

「私が作ったやきもの」は、子供が私の葬式をやるならば会場に並べ、欲しい人には持って行って使ってもらいたいが、

参加者より作品の方が余程多いから、残りは砕いて埋め立てゴミにでもどうぞ。

 

 

 

また余談。

私の好きな乙川優三郎は、何かのエッセーに「自分の死後、作品が世に残ることがたまらなく嫌だ」と書いていた。

一般的には、自分の死後に自分が「生きた証」を残したいと思うのがひとの当たり前の心理かと思っていたし、

私自身もそうだったから、自分が生きた痕跡を残したくないという発想は、私には「目からウロコ」だった。

自分が生きた痕跡がけむりのように消え、何も残らないことを願う心情が、作家の何から生まれたものかは不明だが、

これも「乙なもの」だ。

 

 

さて、実感として出版業界の不況はネットの活況に反比例し、ますます深刻化するだろうと思う。

いい本も売れないとすぐ絶版になってしまうし、つまらない本でも売れれば商売としては成り立つ。

本が売れなければ出版どころではないから、出版社の良心もやせ細る一方だ。

 

 

 

若い頃から色々な本を読み漁ったが、どういうわけか外国文学には殆ど馴染みがない。

おそらく外国文学に描かれる情景、風景などに私の想像が届かないからだと思う。

島国根性丸出しの読者ということだが、数少ない外国文学の中でレイモンド・チャンドラーだけは例外だった。

 

 

 

チャンドラーの評価は、今更素人の私が持ち出すまでもないが、日本人ではなかなか出来ない粋な表現が作品にちりばめられている。

彼の作品は村上春樹や、田中小実昌、鮎川信夫、小泉喜美子などそうそうたる作家や詩人が翻訳しているが、

私は清水俊二訳がいちばんいいと思っている。

氏の訳は、昔気質な硬質の文体で、翻訳家としての分をわきまえた律儀な訳だと思う。

娘は春樹ファンで村上訳がいいようだが、私などは「食わず嫌い」で読む気もない。

読書に費やせる残り時間もそんなに多くはないだろうし、まだ読んでない本は山とあるから。

 

 

チャンドラー作品の中に、

「タフでなければ生きていけない。やさしくなければ生きていく資格がない」という有名なフレーズがあるが、

昔このセリフがどの作品の中にあるのかと探しまくったことがある。

ネット社会の今だったら簡単だろうが、結構時間をかけて読み直し、「プレイバック」というチャンドラー最後の長編で見つけた。

 

 

清水俊二訳では、ベッドを共にした女から「あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなにやさしくなれるの?」と訊ねられ、

「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」となっていた。

こんな粋なフレーズやおしゃれな比喩はチャンドラーの作品にはごまんとあり、このセリフも宝のひとつにすぎないが、

いかにも、清水氏らしい肩ひじ張らない訳だと思う。

 

 

このセリフはチャンドラリアン(チャンドラー・ファンのことらしい)の生島治郎によって「タフでなければ・・」と訳され、

その後ほかの人間により「強くなければ・・」とか、「男は、タフでなければ・・」と変えられていった。

「男は、タフでなければ・・」はたしか角川映画のキャッチ・コピー。

これらのフレーズは、「受け」を意識したような訳(キャッチ・コピー)で、私にはどうもさりげなさに欠ける気がしている。

「プレイバック」の中でも主人公のマーロウがさりげなく口にしていると思うのだが・・。

 

 

生島治郎は、日本のハードボイルド小説のさきがけで、若い頃に「追いつめる」や「黄土の奔流」、

「汗血流るる果てに」などのハードボイルド小説から、彼自身の恋愛を描いた「片翼だけの天使」シリーズまでよく追いかけ、読んだ作家だが、

彼の場合、作品よりも生き方のほうがよほど「タフ」で、生島治郎ならば「タフ」と訳すのも頷ける。

実際、生島治郎の生き方、妻・小泉喜美子との結婚や離婚、その後の韓国籍のソープランド嬢との結婚と離婚やゴタゴタ

(このあたりは「片翼だけの天使」シリーズに詳しい)を見ると、まったくこの人は「タフ」の一語に尽きる。

「事実は小説より奇なり」というが、作品もその生き方も面白いと言える作家だった。

 

 

生島治郎のゴタゴタに限らず、男女関係のゴタゴタは他人のそれを見る分にはとても面白いが、

当事者になれば地獄だろうから、出来れば見る側に回りたいものだ。

(下司な根性丸出しで恥ずかしいが、「ひとの不幸は蜜の味」ってやつ。)

ある老人曰く「年老いてつらいのは、金の苦労と人間関係のゴタゴタ」だそうだ。

 

続く

 

 

(焼き締め筒花生)

写真HP更新用 016