度を越せば・・
今では死語になったが、「呑む・打つ・買うは男の甲斐性」と言われた時代があった。
当然、「飲む」は酒、「打つ」は博打、「買う」は女のことで、子供の頃よく耳にしたが、
「甲斐性だ」と声高にいう大人ほど「甲斐性無し」に見えたし、子供心にも気の利いた大人が吐く言葉でもなかろうと思った。
周りには酒で早死にしたり、博打や女で身を持ち崩したり、身内を泣かせる大人が結構いた。
自慢できる環境で育ったわけではないということだ。
その頃は、北野武が描いた父親のような飲んだくれてすぐ大声を出したり、暴れる大人が周りにいたが、
社会の中には、まだこうした人を受け入れ、困りつつも何とか周りが世話を焼き、
最悪の事態を回避させるような「時代の雰囲気」があった。
父母が親身になって進退窮まった人の世話を焼いたり、説教する姿を何度か見たが、
子供心に「どうせこの人の悔悛も今だけさ」と冷めた目で見ていた。
「時代の雰囲気」という漠然としたものが、例えば社会科学上は何を示すのか判らないが、
私たち庶民が、おぼろげな「時代の姿」を掴むためのシグナルのひとつだと思っている。
その意味では今の時代の雰囲気が持つ「息苦しさ」は、何を示しているのだろう。
若い頃は「飲む」ことに熱中し、楽しい酒、きれいな酒を心がけたが、
店の中で大事な友人となぐり合ったことがあるし、
亡くなった妻の話では、泥酔して「つけ馬」と帰宅したことがある(私の記憶にはないのだが・・)らしいから、
心掛けたほどには、楽しく、きれいな酒ではなかったかもしれない。
余談になるが、日本酒好きにとっては「備前の徳利・唐津のぐい呑み」が最高の酒器と言われる。
やきもの作りでは、酒好きでなければ良い酒器は作れないと言われ、
「のんべえ」と言われた備前焼きの中村六郎の酒器などは「のんべえ」の面目躍如たるもので、
彼の酒器で飲む酒は格別だろうと思わせるが、さて私が作る酒器はどうだろう。
夜の巷に出掛けるときは必ず車だったので、
酒気帯び運転が社会問題化してからは、車の時は飲まなくなり、
かつ先輩から「男が酒で顔を赤くしてふらふら歩くのは見っともない」と言われたりもして、酒から離れた。
あまり酒が好きでもなかったのだろうし、周囲が言うほど酒でストレス解消できたわけでもなかった。
「臭いにおいは元から絶たなきゃダメ」という宣伝文句があったが、ストレスも元に切り込まなければダメなのだろう。
「呑む」と「買う」は、老いてくるに従い自然に身体からストップがかかるが、
実感として怖いのは「打つ」だと思っている。
「打つ」は老いても制御する機能があまり衰えないのではないかと思う。
サラリーマン時代、何かの拍子にパチンコにのめり込み、金と時間があればパチンコ屋に駆け込んだ時期がある。
死んだ父親の言では「ギャンブルは胴元が儲かるようになっている」のだが、
おそらくこの時期は、儲けよりも銀玉の輝きや騒音に身を浸している時間が至福だったのかもしれない。
帰りの電車賃だけを残して財布がカラということが何度かあったから、立派なギャンブル依存症だった。
生活費を持ち出したり借金をしてまでもということはなかったが、けっこう自分で自分が怖かった。
軽い狂気の中でのめり込んだパチンコから、何がきっかけで離れたのか定かではない。
「憑き物が落ちる」ように突然興味をなくし、それ以来まったく無縁になっている。
子供の時分から資質的にギャンブルには向かないと認識しているし、
ギャンブルに費やす金と時間と体力を仕事に向ければ、もっと儲けられると思うようになった。
その意味では、チューショー企業主という立場は、自分が働きたいだけ働けるから「仕事依存症」の私には格好の立場と思う。
軽い狂気の時間は今考えても背筋が寒くなるが、いい経験をしたとも思っている。
自分でも信じられない自分があるということか。
「買う」という「甲斐性」話も子供の頃よく耳にした。
「あの人は、性悪女に引っかかって、家屋敷をなくしたらしい」などと言う、大人たちの声をひそめた内緒話を何度か聞いたことがある。
子供なりに冴えた耳目を持っていたのか、「あの人らしい」などと一人で納得した思い出がある。
マセガキだったから、「自壊していく大人」の姿を結構冷静に見ていたと思う。
自分の全財産を投入しても悔いのない異性に出会うことはそれなりに幸福だろうが、
週刊誌ネタの[やしきたかじん]すらゴタゴタだから、すべてをささげる出会いなど砂漠で一本の針を探すようなものかもしれない。
「度を越せば、ものみな悪になる」と言ったのは徳川家康だった。
いつもバランスを取りながら、忍従を重ねて権力を掌中にした人物らしい「生活思想」だ。
酒やギャンブル、異性との交際も自分の才覚で始末できる範囲であれば楽しいだろうが、
度を越したその先にあるのは地獄かもしれない。
太宰治のように、呑む・打つ(太宰の場合はヒロポン打ち)・買うの世界に浸っても、
文学という<杖>があったから立ち尽くせたが、
<杖>を持たない私は、何事にも度を越さぬよう注意しよう。
ま、小市民の発想だがね。
(燻ししのぎ花生)