<罰>は<罪>を抑止できるか? その5 (謝罪について①)
「詫びる人間はみな悲しい。でも、詫びる言葉を封じられた人間はもっと悲しい。」
浅田次郎『百年の庭』
中小企業のシャチョーの重要な仕事のひとつに、
社員のケアレスミスや詰めの甘さから生じたトラブルなどを被害者に詫び、
発生した損害を賠償する仕事がある。
「危機管理」の観点からすると、「トップは最初から表に出ない」と言うマニュアルがあるが、
性格的にか、マニュアル通りには行動しないで早めの段階で表に出てしまう。
警察官が不祥事を起こした際、必ず署長ではなく「次長」「副署長」と言う立場が出て来て、
お詫びの会見をするが(このケースは「官」が圧倒的だ)、組織的にトップを守ろうとしているのか、
その組織の狡さが垣間見えてどうも釈然としない。
トップが考えや方向を決定するまでの「時間稼ぎ」であるならばまだ許せるが、
組織防衛に拘るあまり、トップが頭を下げる潔さが足りないのではないかと思う。
トップの出番が遅れ、後々叩かれるケースが最近は多い(マクドナルドやベネッセなど)が、
個人的には早い段階からトップが前面に出る方がいいと思う。
まあ、これとて相手次第とはなるが・・。
仕事のトラブルで謝罪する時に辛いことは、問題を起こした社員をかばいながら先方の怒りを和らげることにある。
社員のミスや甘さから生じたトラブルであっても、先方と一緒になって社員をけなす訳にもいかない。
だから詫びる言葉がどうしても貧困になる。
「詫びる言葉を封じられた」時に似ているかも知れない。
「あの社員は出来が悪くて・・」とは、口が裂けても言えない。
謝罪はいつも相手が納得するまで、会社負担を勘案しつつどこまで賠償するかがポイントになり、
シャチョーの特別な仕事のひとつとはいえ、何時だって楽しい仕事ではない。
相手が損害以上の要求(いわゆる、焼け太り)を出して来る時は、特に神経を使う。
この手の人間は、交渉もしつこく二言目には「誠意が足りない」と声高に言い、被害の立場をカサにきて、
過剰な要求を繰り返す。
最近はこの手の輩が増えた気がするが、この手の人間は、
「自分も何かの折に加害者の側にまわることがある」という当たり前の発想がないように思える。
逆に被害者として詫びられる立場の時は、どうも居心地が悪い。
同じようなミスやトラブルを自分が起こす可能性があり、
たまたま逆の立場に立っているに過ぎないからだ。
私の根底には「人は必ずミスを犯す」という認識がある。
交通事故(もらい事故)などの場合、私が吐く言葉はいつも決まっていて、
「お詫びの言葉はいらないから、保険会社に連絡を取り現状復旧してくれればいい」と言う。
交通事故などは何時だって、加害・被害の立場は紙一重だと思っている。
私の根底には、加害側が謝罪の言葉を並べることは必要だが、
発生した損害をどのように賠償するか(慰謝も加えて)のほうが重要かつ優先で、
損害を十分補填できなければ、詫びの言葉を並べても解決はないと思っている。
だから、私の会社は体力以上の損害保険に加入し、保険料の支払いが過剰ではないかとすら考えている。
「詫び言葉よりも、損害の穴埋め」という発想はドライすぎるのだろうか。
もちろん詫びの言葉が不要と言うわけではないが。
犯した<罪>に対しどこまで<謝罪>するかと言う問題は、その時代の価値観や倫理観に大きく影響されると思う。
しかし、価値観や倫理観をもってしても、ここまでと言う範囲が明確に決められない分、個人の主観が介在する。
私たちは「時代という曖昧なスケール」と「個人の主観」で、<罪>に見合う<罰>を推し測るしか術がないのかもしれない。
この項続く
(自然釉花生)