期待と現実
フランス映画が人間の存在を描いてその質の高さが世界の頂点にあったころ、
自称「フランス映画通」青年は、実はシリアスなフランス映画を観るのにけっこう腰が重かった。
同じ金を出すならば、やっぱり見終わった後にカタルシスの生まれる作品の方が好ましく、
よく映画館の前でアメリカ映画や日本映画にシフトした。
当時のアメリカ映画は、まだ丁寧な作りの作品が多く、娯楽作品でも今のような「粗製濫造」は少なかったと思う。
そんな中で「007」シリーズや「ダーティー・ハリー」シリーズで、彼らが使う武器(拳銃)のさりげないシーンが好きだった。
「ドクターノオ」でボンドが上司Mからベレッタを取り上げられ、ワルサーPPKに代えさせられるシーンや、
ハリーがマグナム44を撃つシーンなどにワクワクしたものだ。
当時「GUN]という雑誌があり、時たま買っていたが「武器」の徹底した機能美に惹かれたと思う。
そんな映画を見ながら、いつか自分も本物の拳銃を撃ってみたいと思うようになった。
それまでに感じたことのない解放感やスカッとした気分を満喫できると思ったのだ。
長くこの思いを持っていたが、それが実現したのがグアム島へ行った時だった。
友人の会社の旅行に同乗して行った時と思う。
何よりも「実弾射撃」を目標にした旅行だったから、チェックインするや否や、
はやる心を抑えホテル近くの射撃場に一人で出かけた。
射撃場はコンクリート壁に囲まれたところで、片言以上に日本語を話すインストラクターの説明後、
貸与された銃はスミスアンドウェッソンの24口径だった。
満を持して待望の1発を発射した。
スミスアンドウェッソンもあこがれの銃だったが、発射後スカッとするはずの高揚が全く湧かなかった。
数発実弾を撃ってみたが,どうしたわけか気分が1発ごとに沈んでいき、スカッとするどころか、
気分は沈みっぱなしで自分でも釈然としなかった。
今もってなぜ気持ちが沈潜したか分からないが、
期待と現実のかい離がこんなに激しかった経験はその後もない。
私の資質の中に、実弾射撃がもたらす「スカット感」を受け入れる素地が無かったとしか思えない。
気付かないままこころに潜在していた生理的拒否感に似ているかも知れない。
以後、まったく銃に対して興味を失い今日に至っている。
小さい経験だが、いい経験をしたと思う。
自分という「器」の形や総量を知ることは大事なことだが、「器」が意識下で拒むものもあるということだろう。
「汝自身を知れ」というが、自分という<個>を熟知しているつもりでも、実は結構未知な部分があるのかもしれない。
故郷に戻った自称「フランス映画通」の青年は、若い頃親しんだフランス映画を求めたが 、
悲しいかな、地方では全くフランス映画は配給されない。
思い余って『フランソワー・トリュフォー全集』をはじめ名作ビデオを多く求め、近くて遠いフランスを繰り返し楽しんだが、
世の流れがビデオからDVDに急激に代わってしまい、
他の名作ビデオと共に、観る機会(機械!)がなくなってしまった。
映画を語る際、避けて通れない名作を沢山収集したが、今では再生機器もないので棚に並んでいるだけだ。
それらのビデオテープは、埋め立てゴミ以外処理方法がないという。
「トホホ」とはこういうことだ。
集めたビデオの中には、深い知恵や情熱、意思や責任が詰まっているから
再生できないビデオも捨てるに捨てられず、永遠にないであろう出番を静かに待っている。
棚の『フランソワ・トリュフォー全集』を見るたび情けなくなる。
技術の進歩は、時として不幸を生み出すものだ。
(焼き締め花生)
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