いのち・ぼうにふろう その2
「たかが人生じゃないの」と「いのちぼうにふろう」は、
進退窮まった場面で、私が「腹を括る」とき、背中を押してくれた言葉だが、
当然「たかが人生じゃないの」と見極められる程に達観できていない。
そして、「いのちを棒に振る」ことなく今日まで来ているが、いつだって人はいのちを棒に振ってはいけないと思う歳になった。
若い頃から子供を主人公にした映画を観ると、妙に感動して鼻の中がツーンとした。
『がんばれ ベアーズ』でツーンだから里が知れる。
「特攻隊」を描いた映画などを観ると涙腺が緩んで始末が悪いが、日本人としては平均的な感情だろう。
若者を特攻に追いやり、自分たちは逃げ延びた恥知らずな上官たちを描いた「特攻隊」物語はないから、
「特攻隊」の描き方はいつも一辺倒になっている。
今のこの手の映画やドラマは、作りが粗雑で、事前の話題を盛り上げるためか、
人気タレントを主人公に据えるから、タレントに偏見持ちの私はそれだけで白けてしまう。
加えて、登場人物がみなおろし立てのような服を着、小奇麗に化粧しているのでリアリティーも何もあったものではない。
黒澤明ならこういったところは、絶対手を抜かないだろうと思う。
さて・1977年に日本赤軍がダッカ空港で日航機をハイジャックし、国内に拘置されている仲間の釈放と
身代金600万ドルを奪った事件があった。いわゆる「ダッカ事件」だ。
事態がこう着する中で、時の総理・福田赳夫が「一人の生命は地球より重い」と言って、
「超法規的措置」で何人かの赤軍派の拘置者を釈放したことがあった。
「日本赤軍と政治的思想が異なる」と言って釈放を拒否した3名の政治犯もいた。
福田赳夫は見てくれが狡猾な老人のようで、(角福戦争まで起こしたのだから狡猾なことは間違いない)
ライバルの田中角栄ほど話術も上手くなかったから、つまらない政治家と思っていたが、
「一人の生命は地球より重い」と語った時、福田に対する私自身の認識の甘さを感じた。
この時、日本にもまともな政治家がいると思った。
この言葉は文化人や評論家が口にしてもあまり価値はないと思う。
政治家、それも時の総理が吐いたから価値がある。
人というものは普段はあまり「内なる力」の差が見えない。
重大事が起きて時初めて「内なる力」の差が如実に見えるものだが、
私が軽んじていた「政治家・福田赳夫」の政治思想の立脚点をこの時見た気がする。
閣僚や官僚たちと協議した言葉であったとしても、最終決断は彼がしたのだろう。
政治家が自らの政治思想(哲学)の核に、一人の人間の命の重さを掲げなければ、
国民は決して彼に<信>を置くことはない。
「一人の生命は地球より重い」という思想は、私には普遍性を獲得していると思える。
政治家の言葉は重いというが、最近の政治家にはこのような普遍的思想がない(見えない)から身が軽い。
いざという時、信頼に足る思想や哲学が彼らにはなかなか見えない。(無いから見えないのだろう)
「政治家」がこうした普遍的思想を持たなければ、政治家と同様に政治自体が軽くなるのだが・・。
最近は、福田のこの言葉は日本人が海外で拉致され身代金を要求される場面では、
「否定的なニュアンス」でよく引用される。
曰く、この判断結果により日本はテロリズムに屈し、テロと戦う他国の信用を失ったという論調だ。
だが、ネットで『ダッカ事件』を調べてみると、当時は釈放が通例で、テロに屈したという評価は後から出てきたようだ。
そして、報道されなかった裏側が多くあったことも知った。(詳細はネットで)
政治的指導者がその政治思想の根幹に「一人(自国民)の生命は地球より重い」という思想がなければ、
私たちは根底からこの国を信用できなくなる。
アメリカは戦場に置き去りになった兵士や、拉致された捕虜をあらゆる手段(非合法も含め)で奪還する国だと言われるが、
日本には、自国民の命はあらゆる国益よりも勝るという国家意志があるのだろうか。
福田の政治思想が否定される場面が出現したら、
寺山修司ではないが 「身捨つるほどの祖国はありや」と叫ばなくてはならない。
若いいのちを「特攻隊」でさんざん棒に振らせた思想は、いのちを「数」や「効率」「効果」と捕えていたが、
いのちの価値を知ろうとしない指導者や政治家は御免こうむる。
いのちを「数」や「効果」で語るのは誰にだってできる芸当だ。
最近では、スキャンダルが発覚すると、市民社会で通用しない判断や言い訳を並べる、
社会的に未熟すぎる政治家(みんな高学歴で頭は良さそうだが)が山盛りで、
何を目指して「政治」に関わるのかよく分からない政治家が多い。
個人的に言えば、
弱者や貧者を救済することが好きでしょうがない(私は御免こうむりたい!)という、
変わった性格の持ち主(!)以外は、政治に首を突っ込むべきではないと思う。
(自然釉偏壷)