いつだってトラブルは・・。
60数年生きていると、自分の人生の「かたち」がほぼ見えて来る。
むかし『親を見りゃ ぼくの人生 知れたもの』とかいう、ませガキの川柳があったが、
自分が生きてきた道程を見ると、残りの人生像もほとんど「知れたもの」かと思う。
島崎藤村風に言えば、「今日またかくありけり、明日またかくありなん」というようなものか。
いままで何度かきついトラブルに遭遇し、それらを切り抜ける過程で自分の「姿」、
つまり私の内なる「価値観」や「性根」、「意志の強弱」、「こだわり」など、
自分の「姿」がはっきり掴めるようになった。
振り返れば好ましい自分もあったし、もう少し頑張れなかったかという悔恨もある。
そうした経験から幾つかの教訓めいた「確信」をつかむことが出来、
それらの「確信」は人生上のシグナルとなっている。
その一つが、「いつだってトラブルはまとまってやって来る」という「確信」だ。
経験を重ねる中で、いつしかそう思うようになったのだが、今では「確信」になっている。
公私取り混ぜて、いつだって私を襲うトラブルは単発ということがない。
もちろん、実際は単発のトラブルと対峙したことの方が多いのだろうが、
記憶に残っているのは、まとまって立ち現れたトラブルだけだ。
トラブルの種類は都度違うが、殆ど始まりからパターン化されている。
先ず体調を崩す。
ほとんどの場合溜まった疲れから体調不良になり、すぐ医者に行き休めばいいのだが、
休むと仕事が遅延すると思い(実際はそんなことはないのだが)貧乏性ゆえか、仕事中毒か、売薬を飲んで仕事に向かう。
風邪などの場合、うまくいくと売薬で治まる場合もある。
この経験を過信し、何とか売薬で仕事をしながら治めようと売薬の過剰摂取に陥る。
そうしてどんどん症状が悪化し、それでも無理をするから、気力体力とも青息吐息になる。
自業自得のようなトラブル1号の誕生。
そうこうするうちトラブル2号が発生する。
これは大抵仕事上の問題。社員では対応不可能なケースが多い。
病気で頭が回転せず、頭痛、発熱、筋肉痛などを抱えてトラブル2号の解決策を模索していると、
トラブル3号が来襲。
このころには気力、体力、最低の状態。
こう書くと軽く感じるが、問題の解決まではいつだって不安や恐れの真っ只中にいて、時には安眠すらできない。
身体はしきりと休息を欲しがるが、ふたつのトラブルと体調不良に悪戦苦闘していると、
注意力散漫になるのか、自損事故を起こしたり、生活上でのミスが発生する(トラブル4号だ)。
こうして負の連鎖が続くのが、私の人生のトラブルパターンと言える。
すべてのトラブルに的確に対応できたかどうか不明だが、
今さして大きな批判も受けていないだろうから、もって良しとするしかない。
過日「「ナイトキャップ」としての読書をしていた。
私にとって読書は眠りに就くための儀式のようなもので、
ほとんど半入眠状態での読書だから、翌朝大まかなストーリーすら失念しているケースがある。
特に短編を複数読んだ場合、一方を翌朝全く思い出せないほどいい加減なものだが、
浅田次郎の短編の中に(題名は忘れた!)『いつだって、不幸はまとまって来る』という一節があった。
この言葉は作家の実感と思うが、同じような人生上の「確信」を持った人間がいることに、
少しだけ勇気付けられた。
なぜ人は(私は)同じような苦しい経験や、その経験が生み出した認識を持つ人を知ると、
安心するのだろう?
情けない話だが「同病・・」の思いなのだろうか。「同病・・」は御免こうむりたいが・・。
とまれ、「一人でない」ということは、それだけで人をホッとさせるのかもしれない。
(焼き締め耳付き花生)