新型コロナが露出させたもの

お知らせ

日本で新型コロナウィルスの感染が確認されてから半年以上が経過した。

感染力は想像以上に強力でいまもって感染拡大を続け、私達の日常はコロナを意識した行動に終始し、ストレスが消えることなく続いている。

世界的なコロナの蔓延は、各国の国力や医科学水準、政府と国民の「生命」の距離(国民の生命や健康を守るためどれだけの政策と予算を投入したか)、

リーダーの危機管理に対する姿勢や資質など、

平時ではあまり知ることのない国の形や理念、指導者の人間性や思想などが自国民や世界に開示された。

ドイツ、オーストラリア、台湾などの女性リーダーが、コロナ危機に丁寧かつ有効に対応したことは、近未来のリーダー像を示唆する根拠があるかもしれない。

私自身は、新型コロナウィルスが国家という「パンドラの匣」を開けたと考えている。

 

我が国においても政府や行政が中心になってコロナの押さえ込みを目指し、決して十分とは思えないが様々な政策を講じている。

個人的にはコロナの抑え込みを政策として行っているというよりも、

国民の行動様式に啓発を与えるだけ(三密を避けろ、移動を自粛しろなどアピールばかりで押さえ込みの具体策がいまもって見えない)で、

対策の根幹は「国民性」頼みのように見える。

よく言われる日本人の特性、つまりリーダーの思惑以上に指示方向に進んでしまうという「国民性」や「従順性」が、

政府や行政の対策不足をうまく補完し、コロナ対策として機能しているように私には感じられる。

余談だが、「やり過ぎてしまう国民性」は、コロナ禍でも露出し、他県ナンバーに対する「自警団」のような過剰反応や、

コロナ罹患者への差別やクレームも見られ、国民が過剰に戦争にのめり込んだ雰囲気を想起させ、暗澹たる思いがした。

 

しかし未だ感染者の減少には至っていない。

一日千秋の思いで特効薬とワクチンの開発を待っているのが今日の私達の姿だ。

 

コロナが国の「パンドラの匣」を開けたと書いたが、

一連の「コロナ対策」という国の政策の背後に見えたものは、

日本の政治システムが修復不能なまでに劣化し、その劣化やほころびを利用した一部の人間が、

国民の苦しみや不安を好餌に甘い汁を吸っている姿だった。

火事場泥棒のような行為がバレても一切お咎め無しという、極限の放埒を政治ステージで私達は何度も見せつけられた。

 

コロナ禍の日常で私達が最も憤るのは、

この国の政策を決定・実行する統治システムの中で、決定・実行できる立場(官僚や政治家など)に身を置けば、

どのような愚策や独りよがり、身びいき、えこひいき(つまり、公金の無駄遣いや公金の身内への還流)をしても、

少しの期間マスコミに叩かれはするが、自らの地位や財産を失うこともなければ、罪に問われることもないという事実だ。

そして公金を使える立場にいれば、無駄遣いも身内の厚遇もお咎めなしという姿を見せつけられても、

私達には何もできないということだ。

 

日本の統治システムがここまで綻びているとは想像していなかった。

もう少しまともな国であり、まともな統治システムと思っていたが、コロナが国の蓋をあけたら腐った統治システムが露出し、

腐った肉を食らう輩がシステムをコントロールしていたということだ。

この国の統治システムは、すでに客観的な自己検証の機能がなく、運用する側がいくらでも恣意的に運用でき、

かつ責任を問われることもないように変質されてしまったのだろう。

コロナ以上の危機が発生した時、この国の指導者や官僚制度は本当に国民を守れるのか不安になる。

 

私自身は使うことのなかった「アベノマスク」の報道で一番驚いたのは、一人の補佐官の進言を受けて総理大臣が2枚のマスクの配布を決め、

それが内部検証もなく実行されたという報道だった。

生活感覚や労働経験からすると、どのような業務方針も複数が検討され、賛否交えて揉まれたうえで決定され、

かつ反対意見に説得力があれば方針停止もあるという、この社会の当たり前の常識行動が、

国の中枢では行われておらず、予算もあと付けで決まったという、さながら個人企業以下の政策決定のシステムだった。

馬鹿げた政策を誰一人とて注意も批判もしなかったということにも驚愕する。

この国の財政規模からすると、マスクの配布に係る予算はそれを計画・実行できる立場の人間にとっては、

さほど大きな金額でなかったのかもしれない。

だから、私達が缶ジュースを買うくらいの感覚で思いついたのだろう。

公金をいくらいい加減に使っても自分の腹は痛まないから。

 

公金は個人の金ではないから浪費や愚策に費やしても、政策を決定・実行する立場の人間は自分の腹が痛むわけではないし、

我々零細企業のように、設備投資の失敗で会社が縮小したり倒産することがない。

自分で金を稼がず、ただ使うだけという立場に身を置いたことがないから実感は持てないが、

彼らは、私生活を別にすれば、仕事の場面で金の苦労をすることがない分気楽に金が使えるのだろうか。

こんなことが何度も繰り返される腐敗した政治はうんざりするが、

残念ながら、いまの統治システムを突き破る新しい統治メージを政治思想として誰も描けないままだ。

世界史的レベルで政治思想の敗北は依然として続いている。

 

もう一つ。

「個人情報保護」や「重要機密保持」の名分のもと、自分たちに都合の悪い記録やデーターを堂々と隠蔽することがまかり通る時代(政治)になった。

自分たちが立場上触れることが出来る記録やデーターが、自分達のものでないにもかかわらず、

都合が悪ければ黒塗りで出したり非公開にしたり、存在すら否定する時代(政治)になった。

何がこの国をそうさせたのか、世界的な傾向かもしれないが、人間性の劣化(あるいは「権力の劣化」)に歯止めがかからない様子が見える。

どんな集団や組織にも、ある立場につかなければ接することができない情報などはあるが、

企業にとっては、例えば税務署に求められればあらゆる記録やデーターは一切秘匿できない。

どんな企業も黒塗りの帳簿やデーターを税務署に出すことは絶対にできないのは自明だ。

 

日本の統治システムの中に、保身や甘い汁を吸うための放埒を許さない力(我々にとっての税務署のような機能)を機能させない限り、

公金の身勝手な使いみちを遮断することは永遠にできないだろう。会計検査院も有効に機能しているとも思えない。

一連のコロナ対策を見ていると、国の指導部に「公僕」という言葉は死語になってしまったようだ。

「持続化給付金」の重層的な下請け企業に政府関係者が在籍するニュースなどを見ると、

この未曾有の危機にあっても、まだ国民の生き血を吸う輩が多くいるということだ。

これでは誰だって税金を収めるがイヤになる。

 

↓三角筒花入れ

全部寝かせて貝高台で焼いてみた。

温度が高い分釉薬はうまく溶けて流れたが、この形に少し飽きが来ている。

この形に自分なりのオリジナリティーを加えられないから、

いつまで立っても趣味の範囲を抜け出せない。