人は誰もが<罪>を犯す。
<罪>の深さや重さ、<罪>が表面にあらわれるか否か、他者(社会)から指弾されるか否かなどは別にして、誰もが罪を犯す。
罪の「幅」は、例えば時代の変化に伴う人々の価値観によって変わるから、不変とは言えない。
かつて<罪>だったものが、現在問題にされないという事例も沢山ある。
つい先日、韓国で『姦通罪』が時代の流れや韓国の今を生きる人々の価値観に合わない、ということで撤廃されたばかりだ。
かつて重い罪だったもの(例えば韓国の『姦通罪』など)がいま不問だということは、
<罪>というものにも「永遠なる罪」と「時限的な罪」があると理解するしかない。
日本ではかつて、人が生きるために(食料として)動物を殺すことは、仏教上の罪と捉えた時代があったが、
今そのような罪の意識を持つ人はまれだろう。
だが、イスラム教における豚の殺害やヒンズー教における牛の殺害など、主に宗教的価値に根差した<罪>は、
異文化の<価値>として、特定の社会では厳然と生きている。
<罪>とは他者の<価値>の毀損と言えるから、価値の違いが<罪>を生むことになるケースもある。
総じていえば、キリスト教の「原罪」と言う(概念についてはあまり詳らかではないが)考えが語るように、
人が生まれる(生きる)こと自体が<罪>と無縁ではないと言える。
人はなぜ罪を犯すのか?
この問いに正面から向き合おうとしたら、「人間とは何か?」、「社会とは?」、「歴史とは?」等の
「永遠の課題」を考察しなければならない。
私には荷が重すぎる課題だ。
だが、何事かの思索は繰り返す必要がある。
現代という時代は、傍観者の地位を保てるほど生きやすい時代ではないのだから。
人が罪をおかす契機を、例えば「悪の芽」と言い換える。
人は生まれてから何時の時点で内なる心に「悪の芽」を宿すのであろう。
生まれたばかりの子供の内に「悪のかすかな芽」はあるか?
3歳児の心に他者(外部世界すべて)を害する<罪>の萌芽はあるのか?
10歳の少年は<罪>を犯す衝動を秘めていないか?
なぜ人は罪をおかすのか?
罪はその<個>の資質から生まれるものなのか?
それとも、その人の資質や価値観、感性、理想、倫理など、
総じてその<個>を育んだ時代や環境、社会が契機となるのか?
おそらく、<個>と社会や時代が複雑に絡み合って、「個人の犯罪」としてこの世に出現するのだろうが、
はたして、<個>とそれを育んだ社会の責任は分離し得るのだろうか?
裁判において、<罪>を生んだ「社会の責任」を「情状酌量」として減ずる時、その根拠は妥当だろうか?
ひとつの<罪>が生まれる、<個>と社会の複雑な「からまった糸」をほぐさない限り、
<個>にも社会にも本当は<罰>を問えないのではないか?
特に現代社会に頻発する「理解が出来ない部分」を持つ「時代の病理」を写し出した犯罪を解明するには。
人が<罪>をおかす「きっかけ」を最も鋭く喝破したのは、知る限り『歎異抄』ではないかと思う。
私たちの前には多くの思想家や文学者により語られてきた『第13条』が、今なお永遠の思想として屹立している。
門外漢の私が、『歎異抄』を語るには荷が重すぎるが、(何が苦手と言って古文ほど苦手なものはない)
私の考えをまとめるためにのみ、わたし流の解釈を記す。
願わくば、著者・唯円の言葉の核心に一指なり触れられるように・・。
続く
(灰釉灰被り筒花生)