<罰>は<罪>を抑止できるか? その1
少年と言われる「子供達」が、凶悪な犯罪を犯す傾向が著しい時代になったようだ。
「ようだ」というのは、過去の少年犯罪の統計などについて承知しているからでなく、
ただ少年犯罪のニュースが頻発していると感じるに過ぎないが、
少なくとも、私の人生を振り返ってみても、最近は少年による凶悪犯罪が多いと感じる。
少年犯罪というと出来事を見ると、彼らの行動とそれを生む「論理」に、
私の位置からは関連性がはっきりとは見いだせず、
印象としては、論理と行動の間の埋められない距離を彼らが軽く「飛び越し」ているよう見える。
少年犯罪には、「なぜこの理屈でこの行動まで行ってしまうのか」という不可解な思いがいつも付きまとい、
彼らの「論理と行動の関連性」に、未熟な年頃なりの小さな思慮があまり感じられない。
いつの時代も大人にとって子供というのは不可解な存在と言うことか。
もっとも、私も含め大人も全く未熟でお粗末な論理と行動も多いが・・。
今注目されている少年犯罪は「上村遼太」君殺害であり、少し前には「名古屋大学の女子学生」による
殺人事件があった。
どちらも、「納得はしないまでも、そうか、しかし、他に方法もあったろうにという思い方もできた」
(阿久悠・『清らかな厭世』)
という類の事件ではない。
どこかで私(達)には理解不能な領域を持つ事件だ。
ただ、人が犯す犯罪がその<時代の暗部や病理>を映すものであるとすると、
私たちの社会が抱える<暗部>は、もはや私たちの理解が及ばないほど暗黒なのかもしれない。
また、子供が大人の在り様を映す鏡とすると、今の私たちの生き方が大きく歪んでいるのかもしれない。
少年犯罪に対し、彼らが起こした<罪>とその後の償いとしての<罰>に対し、
彼らを裁く「少年法」の不備や<罰>の過料に対し様々な意見がマスコミを賑わしている。
一般的感情として、事件の悲劇性や残虐性を考えると少年であれより重い刑罰を科せるべきで、
そのため少年法を改正し「厳罰化と対象年齢の引き下げを」と言う意見だ。
この意見には、厳罰化の先の「更生」がよく見えない気がする。
他方、少年の「更生」を主眼として少年法の「精神」を維持し、更生プログラムを充実させるべきだと言う意見がある。
こちらの意見には、<罰>が軽すぎるのではと言う一般感情と、本当に「更生」は可能かと言う疑問が付きまとう。
この二極の立場はどちらもよく理解できる感情や論理だが、
私などは、どちらをとっても「この少年はまた似たような犯罪を繰り返すかもしれない」という懐疑が禁じえない。
今の時点で私が考えるきっかけとしては、
「罰を重くすれば罪を犯す人間が減るか?」と言う点に収束する。
若しくは、<罰>は「更生」の契機たり得るかと言い換えても良いかもしれない。
当然この考えは、究極の<罰>として「死刑」を選択すべきか否かに至る。
言い換えれば、「犯罪の抑止力」として最高罰の「死刑」は有効かどうかといえよう。
国家が、究極の罰として「死刑」を科すとき、それが被害者の側の
無念さをはらす(?)だけでなく、社会にとって犯罪抑止の効果や有効性がなければ、
<罰>は過去の<罪>に向かうだけのベクトル(関係者にとってのひとつの清算)しか持ちえない。
被害者家族が、加害者死刑の報に接し、「ようやく区切りがついた」という時、
私たちは誰もがこの思いを理解しうるだろう。
「加害者が死刑になっても家族の時間は止まったままだ」という思いを聞くこともある。
この思いも十分理解しうる。
人は突然理不尽な理由で身近な人をなくすと、生きている間ずっと「死んだ子の齢を数える」ものなのだろう。
ひとは犯した罪に対し、なにを成せば「償う」という「人間的行為」が完了するのだろう。
裁判所が下す<罰>を果たせば<罪>は償ったと言えるのだろうか?
何処が「償い」の区切りとなるのか、当然すべての事案が個別的であろうが、私には見極めがつけにくい。
それでも、凶悪な少年犯罪はこの社会に増え続けるだろう。
続く
(焼き締め筒)