鈴木三成先生のこと(誠実さの価値)
「勤勉、真面目を野暮、ダサイと笑いものにした時」、
「それが社会の価値観、人の美意識を腐らせてしまった」と、
自らの死を前に警鐘を鳴らしたのは、『清らかな厭世』の著者・阿久悠だった。
余談になるが、
阿久悠は作詞家として広く知られた人だが、個人的にはこの人の「瀬戸内少年野球団』、
藤沢周平『蝉しぐれ』、鈴木隆『けんかえれじい』の3作は「青春文学」の白眉だと思っている。
何を持って「青春文学」と定義するか承知はしていないが、
この3作を読んだ時、こういう文学作品を「青春文学」と言うのだろうと強く感じた。
夕べ読んだ小説の題名すら時に忘れるモウロク人間だが、
この3作は濫読60数年の私の一押し。
さて、鈴木三成先生のことについて語ろうと思う。
私にはやきものの師匠と呼ぶべき方が3名いる。(私が勝手に呼ぶだけだが・・。)
以前触れた村田亀水先生であり、鈴木三成先生、若尾利貞先生だ。
御三方に共通している点は「真面目、勤勉、誠実」な生き方(作陶姿勢)だ。
御三方の生き方が生み出す作品には、当然、真面目、勤勉、誠実な生き方が随所に見て取れる。
しかし、阿久悠を持ち出すまでもなく、「誠実さ」は現在さほど評価されているわけではない。
社会に誠実さが無くなったから、誰も誠実であることをどのように評価していいか、分からなくなったからでもあるまいが、
御三方は私が入れあげ、願うほど世評は高くないと感じている。
作家の人間性である真面目さや誠実さが自然に写し出される作品が、
「腐ってしまった現代人の美意識」に届かないからだろうか。
それとも「誠実」と言うファクターは「美」とは別物なのだろうか。
若しくは、「誠実」に価値を置くことは、私の美に対する評価が何らかの欠落を表しているのだろうか。
三成先生のお宅(工房)には月に一度くらいお邪魔する。
半日とりとめのないやきもの談義をして帰宅するのだが、子供のように訪問日が待ち遠しい。
何より、先生の生来の誠実さに触れることが出来、心が洗われるような至福の時だ。
先生はいつお邪魔してもテストピースの山を築いて、『青瓷』と言うもともとが微妙な色合いの作品を、
更に「青」を深めよう釉薬の微妙な調合を繰り返し、細部に拘りながら「軽く流す」ことをせず試験と作陶を繰り返している。
私は先生ほどテストピースの山を築く作家をほかには知らない。
青瓷の作品は色と形がすべてと言ってよく、先生は色と同じく形のシャープさも常に追求している。
「ここをあと1~2ミリ細くすれば良かった」などの言葉がいつも飛び出すが、
その真面目さにはただただ脱帽するばかりだ。
ある時私が、「先生、魯山人も言っていますが、世の中はメクラばかりで、先生のその拘りを理解する
人間は評論家も含めて殆どいませんよ」と言ったことがある。
私にすれば、更なる高みを求めて苦悩する先生に同情して言ったのだが、
「誰が理解しなくても自分には作品の欠点が分かるからこだわる」との返事。
それ以来私は、自分の責任として一歩でも深く人間鈴木三成とその作品を理解しようと思った。
先生はいつも「その1ミリ先へ、その1グラム先へ」を目指し、作品の軽さと曲線の美しさを追い求めている。
やきものの知識などなくても、先生の作品をよく見れば「誠実」という2文字が浮かび上がるが、
腐り始めている現代の美意識には、「誠実」と言う価値は遠くに追いやられてしまったのかもしれない。
基礎力の低い作家達の品のない作品が氾濫する現代は、誠実な作家にとって生きづらいかもしれない。
(うずくまる(蹲)壺)