人生の加速度

お知らせ

「収容所の一日は一年のように長く、一年は一日のように短い」とは,

ソルジェニーツインの作品に出てきた言葉だと思う。

記憶だから言い回しが若干違うかもしれないが、主旨は違っていないはずだ。

 

 

収容所の強制労働に従事させられ、毎日変化のない時間を過ごすことは、

人間にとって苦痛以外の何物でもない。

知的な人間にとっては尚更だろう。

そして、『シーシュポスの神話』を持ち出すまでもなく、

「目的を奪われた労働」の繰り返しは精神にとってこれ以上ない不毛や荒廃となる。

 

 

他者とのコミュニケーションを制限され、労働の対価を得ることもなく、

ただ罰則としての労働に(本来罪を犯した罰ではなく、時の権力批判をしたという「罪」)

従事させられるという不条理は、時間の長さがもっとも苦痛として人をさいなむだろう。

犯した罪を認めた罰と、自らに恥じることのない「罪」による「罰」とは

当然その苦痛に大きな違いがある。

 

 

ところで、「一年のように長い一日」を度々経験したことがある。

幼い頃、例えばある夏の一日。

目覚めてから眠りに就くまで、時間はゆったりと流れ(時計を見ることもなかった!)

何をやってもまだ一日が終わらなかった記憶が鮮明にある。

幼い脳に刻まれた記憶の跡が浅いためか、幼い日の時間はゆったり流れていた気がする。

 

 

 

長じて、人生の姿がはっきり見えるようになると、

私たちの時間は制御できないくらいのスピードで過去に走り始める。

「一年は一日のように短い」と実感する時間が、日々加速しながら遠のいていく。

社会のスピードが速いから、個人の速度も速まるのだろうか?

 

 

30代の頃、「40過ぎたらスピードが速い」と聞かされ、

40代になると「50過ぎたらあっという間だ」と忠告され、その言葉を実感しながら生きてきたが、

50,60代になるとますます速くなるスピードが怖くなる程だ。

 

 

なぜ、人は歳を重ねるほどに人生の通過速度が実感として速まるのだろう。

おそらく誰もが感じる疑問について、以前からよく考えたがうまく考えが結ばない。

 

 

最初はこう考えた。

人は成長するに従い、職場や家庭など諸関係の中で自分の役割(立場)が、

徐々に固まって来、それに従い自分の行動も固まってくる。

だからどうしても「昨日と同じ今日」を営まざるを得ない。

そうするとあまり変化のない毎日が繰り返されるから、大きく記憶される出来事も少なくなり、

時間の流れが深く記憶に刻まれず過ぎてしまうのかな、と。

 

 

こうも考えた。

人生時間の通過速度には「加速度」が発生しているのかもしれない。

初めはゆっくりと落下しつつも徐々にその速度を増し、最後は圧倒的速度で落ちていくイメージだが、

人生の時間に「加速度」という考えを導入すると、

何となく今日感じるこの速すぎるスピードにも納得がいきそうだ。

 

 

きっと私のこれからは、以前にもまして体感速度が増すのだろう。

残り時間は判らないが、着地するまで無駄にしたくはないものだ。

残りを無駄にしない生き方を願って、さしあったて何を成すべきかだ。

考えるようでは無駄にしているのかもしれないが・・。

 

 

(灰釉筍花生)

写真HP更新用 095