「核兵器」だけか?
「核兵器廃絶」という社会運動がある。
この運動は、運動を支える主張や立場の違いによって、様々な団体が自分たちの活動根拠をもとに色々な活動をしている。
しかし私にはその立脚する違いがよく判らない。
ひとは自分の思想や価値観、心情、社会的立場など様々な理由によって社会運動を起こしたり、
参加する自由や権利があるから、どのような社会運動を始めたり参加しても最後は「個人の勝手」となる。
人がその自由意思により何かの社会運動をしても、他者にその理念や思想を強制しない限りは「個人の勝手」
だろう。
言えることは、社会運動に限らずすべての表現はその自由があると同じく、批判を受けとめる責任もある。
私は「禁煙運動」と「核兵器廃絶運動」にはいつも違和感をもってきた。
「禁煙運動」については以前若干ふれたので割愛する。
代表的な「日本禁煙学会」の論理と行動に胡散臭さを感じるだけだ。
だが「核兵器廃絶運動」にはもっと大きな違和感を持っている。
「人を殺す軍事兵器の中で、ほかの兵器は除外か」という思いだ。
廃絶すべきは核兵器だけですか?
核兵器に近い威力を持つ「非核兵器」は廃絶の対象外ですか?だ。
「核兵器廃絶」の運動は、日本が広島、長崎で被爆した世界で唯一の国で、
原爆による大量殺戮とその後の後遺症に苦しむ人々の苦悩は筆舌に尽くしがたく、
このような非人道的大量兵器は許してはいけないというのが「核兵器廃絶」の趣旨と思われる。
核兵器を語るとき言われる「非人道的」という言葉にもいつも違和感がる。
人を殺すための武器に「非人道的」も「人道的」もあるものか!
「人道的」といわれる武器ってなんなのだ、と。
私は軍事兵器については全くの門外漢で、現代の軍事兵器の性能は全く分からないが、
どのように考えても、広島、長崎の惨劇から70年たっている今、軍事兵器は当時と比べて格段の技術的進歩をしていると思う。
もともと、軍事技術はその時々の最先端の科学や技術、化学、物理学などの知識を集約して成り立っているから、
広島、長崎型の威力を持つ原爆も、今ではとてつもなく小型化しているだろうことは容易に想像がつく。
もっと被害を局地的に限定できる小型原爆もあるだろうし、
70年前の原爆に匹敵する威力の水素爆弾(?)などもあるのではないか。
「核兵器の使用は人類を滅亡させる」というが、
21世紀の戦争には核兵器の出番(最後の兵器としての出番)の前に、別の、
しかし広島、長崎型原爆より威力を落とした
(つまり使用しても世界から原爆ほど非難が出ないような)「非核兵器」の使用が当然想定される。
ただ、1945年にアメリカがやったような、一般市民を巻き込んで一つの都市を壊滅させるという戦争遂行の仕方が、
現代では世界中から批判されるからできないだけだろう。
ある都市の一部分だけを破壊するために、広島や長崎の死者数より少ない犠牲者で済ませられる兵器はきっとできていると思う。
イラク戦争のニュースで、私たちはピンポイントで敵を攻撃する兵器を目の当たりにした。
建前上は、民間人を巻き込まないよう戦闘員だけを攻撃できる(する)兵器だったが、
これがインチキだったことは私たち誰もが知った。
軍事技術は今ではもっと進歩しているだろうから、
広島、長崎のような被害を出そうとしても、おそらく通常の「非核兵器」で賄えるだろう。
これらの兵器は廃絶しなくていいのか?だ。
否である。
「すべての戦争は悪である」という普遍的立場に立てば、
通常兵器は殺戮力が小さいから見逃せるという立場は欺瞞になる。
一度に数十万人を殺せる核兵器は廃絶の対象になり、数十人を殺す兵器は廃絶の対象外だという立場がどうしても分からない。
核兵器だけを廃絶しても人類の歴史から戦争はなくならない。
戦争それ自体が「非人道的」だという立場に立たない限り、もっともらしい団体のもっともらしい運動に、
自分で考えるという基本をかすめ取られてしまう。
(そば釉竹花生)