神が惨禍を求めているのか?
人が「社会」という集団(共同性)の中で生きていくとき、
誰もが不可避に抱く不安や恐怖、悲しみ、憎しみ、怒りなど人間の<本源的恐怖>を慰撫するため宗教は生まれた。
大雑把に言えば、当初は自然の脅威や死などに対する畏敬や恐れからだろうが,
社会が多様化、高度化するに従い、ひとは他者の存在(人間関係)が恐怖や不安、イライラ、憎しみの発生源に
なっている。
宗教は人間が集団(共同性)を構成し始めた時に、不可避的に生まれたといえる。
宗教に限らず、人はその人の価値観に合ったもの(モノから精神まで多様)により、
一時の慰藉であっても救われるが、
なぜ人は社会という<共同性>の中で不安や恐怖、悲しみ、憎しみなどの「負の思い」を抱き、
心が負えない部分の慰藉をなにものかに求めるのだろう。
こころを癒すという行為は人間固有の行為かも知れないが、
ひとの心を毀損する社会の在り様を変えることで、人が社会という<共同性>からもたらされる
本源的な不安や恐怖、悲しみ、憎しみ等を、消滅させることはできないのだろうか?
この社会がひとの心を傷つける限り、ひとはそこで受けた傷を別の世界で癒そうとする。
世界は今、宗教を根源にした惨禍に覆われている。
本来人間を慰藉するはずの宗教が、ひとを悲劇の世界に誘導しているが、それでも人は「宗教」、「神」を求め続ける。
ひとは「宗教」や「神」がなければ、この不安と恐怖に満ちた社会で生きられない存在なのだろうか?
21世紀の世界の殺戮のほとんどの根幹に、宗教とイデオロギーという名の権力が絡んでいるが、
ほかならぬ「神」や「イデオロギー」が人間にこの惨禍を望むのだろうか?
そうではあるまい。
「神」や「イデオロギー」が人に惨禍を求めるとしたら、その「神」も「イデオロギー」も否定されなければならない。
「宗教批判はあらゆる批判の前提である」と語った哲人の言葉が、
恥ずかしながらようやく少し理解できるようになった。
だがこの<批判の前提>は、人類の数千年の歴史(人が「神」を生み出してからの時間の長さ)をもって屹立している。
人が心の安寧を求めて誕生させた<神>が、
人の心を荒廃させ人を惨禍に導くこの<逆立>の構造はどこで変革されるのだろう。
(自然釉砧)