1㍑の器
1㍑の器には1㍑しか入らない。
例えば、1㍑の器を<幸運>が入る器と仮定する。
どうしたって、この器には1㍑の<幸運>しか入らない。
多すぎる分は器から溢れるし、少ない時には不満に繋がるかも知れない。
そして、器の容量は人それぞれで異なるのだろう。
振り返って見ると、幼いころから大きな幸運に恵まれたという記憶はない。
しかし、大きな幸運と無縁な分だけ小さな幸運には良く巡り会えたと思う。
卑近な例だが、自分でも不思議なくらいよそさまから茶菓子などを頂く機会が多い。
前に頂いた茶菓子が終わる頃になると、よく次の物を頂く。
だから、頂き物のお菓子に不自由したことは殆どない。
周りから不思議がられるほどだ。
たぶん私の幸運の器は、頂き物のお菓子に象徴される「小さな幸運」で満たされていて、
残された時間の中で、信じられない程の幸運に巡り合うことは無いだろうと思っている。
そう考えているから、大きな幸運を期待することもない。
私の器に入る幸運は器の口が小さいからか、大きなものは入らないとも考えるている。
余談だが、私が作る花生や花瓶はすべて口が小さい。意識的に口を大きく作ろうとしても結果は少しだけ小さい。
私の内なる何かを暗示しているのだろうか?
<運>という現象を解き明かすことは難しい。
私自身は単なる偶然以外の何物でもないと考えていが、
世の中を見渡すと確かに強運の持ち主という人間もいる。
スポーツの世界では「運も実力のうち」と言うから強者には強運が訪れるのかもしれない。
この手の人間は「運の器」が何かの理由で大きいのだろうか。
おそらく私の器は平均的だが不満はない。
人は現実の悩みで心が衰弱してくる(いる)と不安を減らすためか、それとも幸運を求めてか、
心を「占い」や「神」に委ねることがある。
人が心の平静を保つため、または不安を軽くするため何かに依存するのは人間の特性でもあるから、
否定するつもりはないが、<運>という偶然にはたぶん法則性はない。
だから、誰も人の運勢や未来を知ることはできないだろう。
強運なスポーツ選手にならえば、運も実力で引き寄せろということか。
(うずくまる壺)