思考停止とロクロ停止

お知らせ

1年ほど前から頭が思考停止した。

身の回りや世の中の出来事に対し自分の評価や判断を言葉にすることがおっくうになり、

気になる出来事もあったが、どうでもいいという倦怠が続いた。

物事に対する私個人の評価や判断を言語化する行為は、表現力の修練にはなっても自己満足以外の何物でもないことはハナから承知している。

日常の生活圏から離れた出来事に対し思考することは、反作用として私の現在の立ち位置を確認することになる行為だが、

畢竟自己完結する慰安行為に過ぎない。

だから思考が停止してもそのままにしておいた。

 

 

直接的な原因は、ネットで調べた限りでは加齢による体調不良(いわゆる男の更年期?)だと思う。

疲労感が強く集中力が持続しないとか、睡眠が浅い、寝汗をかく、感情の起伏が顕著でつまらないことでイラつくなどの症状が現れた。

今もって続いてはいるが、私には「身体を凌駕するのは精神だ」という偏狭な精神論者の資質があり、

体調が悪くても頭脳は動くはずだと思っていたが、頭はなかなか思うようには動かなかった。

老いるに従い好奇心が薄れるとよく聞くが、興味や関心が沸かないという「凪」のような時間を身を以て体験した。

頭脳も身体の一部だから、本体が不調の時は部位も変調をきたすのだろう。

それでも日々の生活は以前と変わらない小さな喜怒哀楽の波が続いた。

 

 

今の状態は24時間毎日調子が悪いということでなく、好不調の繰り返しが続いているが、いつまで続くかは分からない。

高齢になって原因がよく分からない体調不良になったことで、ふと両親も同じようなことがあったはずだと思い至ったが、

二人とも昔の人間だから口にも出さず、私も気付かなかったことに今になって負い目を感じる。

 

 

同じ時期、厳密にいえば去年のGWから意識的にロクロから遠ざかっている。

土の成形過程で私が一番拘って来たものはロクロ成形だが、意識的にロクロ以外の方法で成形を始めた。

直接のきっかけは、今年の暮から陶芸の未経験者に陶芸を教えることになったからだ。

今までは自分が上達するのが先決で、他人の面倒をみる暇があったらその分を自分の向上に費やせという思いが強かったから、

他人に体系的に教えるということはなかった。

今回やむをえない事情でにわか講師になるので、素人が簡単に一定程度の作品を作れる方法を考え始め、

考えた方法を自分で実践してみて、その際の注意点を洗い出していたら1年以上たってしまったということだ。

当たり前だが、ロクロ成形の時は気付かなかったことも幾つか発見した。

好きなロクロから離れたから体調不良になったとは思わないが、思いついた幾つかの方法にはロクロほどの爽快感はない。

 

 

陶芸の世界ではよく「土練り3年、ロクロ10年、焼き一生」といわれる。

私は皮肉屋だから、徒弟制時代じゃあるまいし3年も土を練っていたら誰だって飽きてしまうと思う。

だから資金の問題もあるが、本格的に陶芸を始めるならその日から誰でも土練り(菊練り)が出来る土練機を勧める。

あくまで「本格的に」という条件が付くが、3年という時間を他の技術の取得にかけた方が有効だと考えているからだ。

 

 

ロクロはバランス感覚が大事で、運動神経の鈍い私などは20年以上やっても亀水先生のようにはならない。

特に体力が衰えるとだんだん大物が挽けなくなる。

それもあって、ろくろ以外の方法で作ればいいと考え、ロクロからいったん離れたということだ。

ロクロは見栄えもいいし爽快感は抜群だが、基本的には丸いものしか作れないから、作家の中にはろくろを使わない人も結構多い。

要は自分が作りたいものをどの方法で作るかだから、成形にロクロが必須でもない。

 

 

焼きは釉薬の焼成パターンはある程度決まっているから、それを参考に試験的な焼きを何度か繰り返せば何とかなる。

私個人は経験的にやきものの制作過程で一番難しいのは、施釉ではないと思っている。

とくに私のように単色釉で、中国陶磁に範が多い釉薬ものを目指すものにとっては、施釉の出来不出来が結果を大きく左右する。

生地にうまく釉薬がのれば多少焼き方が違っても上手く焼けるが、施釉の段階で小さなミスを犯すと、

どんなに頑張って焼成しても上手く焼き上がることはない。

厚掛けの青瓷や釣窯がいい例で、施釉段階で小さなミスがあると決して焼成が成功することはない。

むかしは青瓷をやると身代を潰すと言われたが、それほど厚掛けの釉薬は扱いが難しいということだろう。

 

 

やきものを制作する工程では、自分でも感心するほどいろいろなことを考え、試行する。

陶芸に関してだけフル回転させるこの頭脳を、仕事で回転させたらもっといい業績が出るのではないかといつも嘆息するが、

こうした私の行動は、技術が未熟でなんとかそれを補いたいという無意識の行動かもしれない。

何かを作り出すとすぐにもっと簡単に、正確に、早く、いいものが出来る方法はないかと常に考えるから、

素人向きの成形方法は結構思いつく。

「名監督必ずしも名選手にあらず」というが、私の場合自分で作る過程で様々な成形方法を考える方が得意だから、

素人向けの講師は何とか務まりそうだ。

 

 

ロクロ好きが1年以上ロクロを封印し、ロクロ成形と変わらない大きさや正確さを保てる方法を幾つか自己流で考えた。

陶芸は最後の「焼き」で計算や人智が及ばないところがあるが、結果としていいものが焼きあがれば何でもありの世界だから、

優れた人に師事できなければ、自己流でもいいと思っている。(自己流の欠点は上達に時間がかかるがことだ)

どうせ教えるならば、教わる方が土を楽しんだと実感できる時間を持たせたいと1年以上試行錯誤をしたので

何とかにわか講師の役目を全う出来そうな気がしている。

 

 

↓焼き締め 蹲(うずくまる)壺

農閑期に農民が自作したこの手の種壺の美しさを見出したのは千利休らしい。

以来今日まで、この形は多くの陶芸家によって作られているが、昔の壺に力負けしない作品にはあまりお目にかかれない。

私の場合ろくろから離れ、また再開するときは必ずこの蹲から始めるが、なかなか作為のない形が出来ず、変にデフォルメしたものを作ってしまう。

この壺も電気窯で焼いたときは気に入らなかったが、薪窯で焼き直したら少し作為が消えたような気がする。

棚板が割れて火床に落ち、長くいたから嫌味が消えたのだろうか。

この壺でも花を活ければ映える。さすが千利休。