「戦争」のイメージ

お知らせ

「政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治である」という毛沢東の有名な言葉に接したのは学生時代だった。

権謀術数のルツボ・中国において、敵対、裏切り、暗殺など常人では体験することのない過酷な「生存闘争」を経て権力を掌握した男にとって、

冒頭の言葉は比類ない体験から生まれた認識だろう。

人は自分の体験から紡ぎだした認識を普遍化したい思いはあるが、

ある時代のある環境にいた自分の固有の認識を普遍化するには、全く別な視点から体験を論理的に組立て直すことが必要だろう。

その意味では、私にはこの言葉も直截すぎて普遍性があるとは思われない。

 

 

毛沢東の農本主義的思想は、中国に比べ社会の成熟度が数十年先行し、

「農村の解体」が進んでいた当時の日本で、規制の少ない自由を謳歌していた学生にとってはあまり魅力ある思想ではなかった。

「政治」と「戦争」という内部には、必ず二律背反的に、政治には戦争が、戦争には政治が秘匿されているのは歴史的事実だが、

少なくとも内に向かう政治としては、毛沢東の認識は違うのではないかと思った。

「政治権力を民衆の手に」という革命理念からすると、毛沢東の「政治」像には「権力の消滅」という道筋がなく、

前権力(皇帝)に代わる新しい権力を作るだけだろうと思った。

それでも、あれほど広い国土と民衆をまとめ上げた「革命」のスケールには感動したものだ。

 

 

そんな感想も社会的な体験が貧弱で、頭でっかちな学生が考えそうなことだったが、

今思うと、今日の中国共産党の政治の骨格である「一党独裁」の思想基盤も、毛沢東の「政治」認識にその出自があるのかもしれない。

毛沢東の言葉も、「政治」を「外交」という言葉に置き換えれば実感としては普遍性を持てるのではないかとは考えるが。

 

 

こんなことを考えたのは、「政治」家が北方領土を奪還するには「戦争」をするしかないのではと発言したニュースを読んだからだ。

最初にうんざりしたのは、この政治家の経歴が日本のサラブレット政治家の典型的なパターンを踏んでいるところだ。

進学校から有名大学に進んで中央官庁に入り、政治家を志して退庁、松下政経塾の研修を経てバッジをつけるというパターンを

この政治家も踏襲している。

どういった経歴を重ねて政治家になろうが、それ自体を批判するつもりはないが、私はこのパターンの政治家に多くを期待しない。

もちろん選挙民の洗礼を受け当選しているのだから、彼らとて想像以上の苦難を経てはいるだろうが、

どうもこの手のエリートコースで「培養」された政治家は、我々の市民感覚から見ると頼りなさや危うさを感じてしまう。

私だけだろうか?

 

 

彼らは幼いころから忍耐力が強く、苦しい受験勉強を頑張って通過し、高い評価と自信を持って社会に出たことは想像に難くない。

私の実感からすると、利口な奴ほど我慢強く努力し、馬鹿な奴ほど我慢も努力もしないから、

この政治家に限らず、政治家や官僚の経歴を彼らに比べ努力を怠って生きてきた「衆愚」の我々は尊重すべきだろうが、

この手の人間は、我々から見ると知識が豊富な割に知恵や社会的感覚が不足しているようで、総じて人間的魅力が見えない。

今では数少なくなった「叩き上げ」の政治家の方が魅力的に見えてしまう。

 

 

酔っていたとはいえ、「戦争」を口にした政治家の頭の中にどのような「戦争」のイメージや認識があったか不明だが、

「選良」である彼の頭の中には、「戦争」という人間にとって究極の悪に対する認識は皆無で、ただ言葉としての戦争を口にしたのだろう。

政治家として政治の使命感を奈辺に持っているのか知らないが、軽い人間がその中身を酒に酔って外に吐いたということだ。

口に出そうが出すまいが、腹の中には戦争をして領土を奪還という陳腐な思いがあったのだろう。

 

 

職業としての軍人は畢竟、戦争遂行をその本分とするが、職業としての政治家は、他国との課題を戦争以外の方法で解決するのがその本分だ。

北方領土を奪還するためにロシアと戦争をしなければ、という発想が軍人から出たのであればいいとは思わないが納得できる。

政治家の口からその言葉が出ることは、政治家という立場に立ちながらその本分が全く分かっていなかったということだろう。

 

 

身を以て戦争を体験した人々、つまり兵士として戦争に駆り出され奇跡的に生還した人や、一般人として他国の兵士に追われ傷つけられた人々に、

一人たりとも戦争を肯定する発言を聞いたことがない。

戦争によって身も心も傷ついた人々がまだ存命なこの国で、彼らの言葉にたびたびTVなどで接するが、異口同音に戦争を全否定している。

戦争でいい思いをした人々(中にはあまり傷つくことなく、うまく戦中、戦後を潜り抜けた政治家や軍人がいる)は

うまく沈黙を守っているが、傷ついた庶民ほど戦争を恐れるのはその傷があまりに深いからだ。

こんなことは格別学ぼうと思わなくてもTVや新聞、週刊誌で何時でもお目にかかれる。

 

 

戦争を口にした政治家は、戦争をするのは自衛隊で、自分は安全な後方で政治家として国論をまとめるのが役割とでも考えているのだろうか。

戦時中、強気な発言を繰り返し(いつの時代も権力を持つ人の間ではイケイケドンドンの方が慎重派を圧倒できる)、

まったく無謀な作戦で多くの国民を殺し、反省することなく復活した政治家や軍人を私たちは歴史の事実として知っている。

この男は国会議員だから「不逮捕特権」があると言ったそうだが、

戦争になっても安全な処にいることが出来る「特権」があると考えていたのだろうか。

 

 

戦争の本質は、自国の政治家や官僚が、相手国の兵士や武器で自国の国民を殺させることだと喝破したのはシモーヌ・ヴェイユだ。

この本質論を太平洋戦争に当てはめれば、多くの国民が戦場に駆り出され、無謀な作戦や感情的状況判断で戦死を強いられたことが直ぐ分かる。

原爆投下まで戦争の遂行を辞めなかった指導者層は、戦後厚顔にもまた復権した歴史を私たちは忘れてはならない。

「よく戦った者が深く傷つく」というという真実から見えるものは、戦争を始めた奴らは何時も自分を安全圏におき、

無名の国民だけが戦うことや傷つくこと、死ぬことを強いられるということだ。

戦争を不可避と考える政治家は、まず自分が最前線に立つべきだろう。

「率先垂範」も政治家の使命だから。

それにしても、政治家が職業として世襲になったり特権が維持される文化の貧困は、いつになったら止揚されるのだろう。

 

 

↓鉄釉扁壺

電気窯で焼いたものを先日薪窯で焼き直した。

最初は形も色も気に入らず、外に放っておいたが、

薪窯で灰被りにしたら色は少し良くなった。

初期の扁壺で形はよくない。