壺(花瓶)の話
やきものを作る人で壺(花瓶)を作らない人はいない。
大きさや形は、作り手の技量や個性、美意識によって異なるが、誰もが数の差こそあれ多くの壺(花瓶)を作る。
私個人は壺(花瓶)を作っている時(とりあえずはろくろ成形の時)が一番楽しいし、アマの中では多作のほうだろう。
アマチュアとしては作り過ぎると思うが、鈴木三成先生も壺(花瓶)を作っている時が一番楽しいというから、
壺(花瓶)作りの「快感」は、ある程度作り手に共通のものかもしれない。
壺はやきものの中では一番自由度の大きい形状だから、ろくろ挽きの際は他のものよりも解放感があるが、
好きでよく作るから納得した形や美しいカーブを生み出せるかというとまた別だ。
多くの壺や花瓶を作ったが、納得できる形やカーブのものが幾つあるかというと数えるほどしかない。
ましてや気に入った形やカーブの作品が、思うように焼けるかというと殆どゼロに近い。
たかが壺、されど壺とでも言おうか。
全国に何人のプロの陶芸家とアマチュアがいて、彼らが日々どれくらいの数の壺や花瓶を作るか分からないが、
おそらく毎日相当数の壺や花瓶が挽かれ、その後焼かれて世に出、残っていくと思う。
壺と茶碗は造形美という点から見ると、非常に作り手の個性や美的感覚がよく見え、私個人は一番好むものだ。
しかし、現代では私のような余程のやきもの好きでない限り、複数の壺や花瓶を求める人はそう多くはない。
現代の生活様式や空間では、それほどの多くの壺や花瓶を必要としてはいないからだと思う。
加えて花瓶や花入としては、ガラス製品などを好む人も多いし、丸壺などは使い勝手が良くない場面もある。
時々どうも壺は、時代の変化についていけなくなった形状ではないかという気もしてくる。
かつて壺は穀物や茶葉、油、酒など食料の保存器として生活の必然から生まれ、
かつ用途や時代の美意識、感覚からその形が変化してきたが、現在それらの用途を壺に求める必然性はなく、
いまは観賞用として若しくは花入としての用途が求められている。
現代は壺の持つ役割が、機能性や用途から離れ、美を表現したモノ(芸術作品)に変わったと言ってもいい。
「観賞用陶器」という「美しさを鑑賞するやきもの」という言葉があるが、いま壺や花瓶という形状はその最たるものかもしれない。
観賞用としての壺は、当然形の美しさや焼き上がりなど美的要素が求められるから、
そこに多くの作家はこだわり、自らの美意識を写し出そうと懸命になるが、
壺が必要とされた諸々の環境が変化し、美しい作品を生み出してもあまり捌けない現代、何故作家は壺を作るのか考えてしまう。
有名な作家の作品さえ、例えば絵画程の人気や価格がないのが現実だ。
いにしえの中国では、「壺中天」という、壺の中に現世とは異なる別世界や宇宙があるという逸話を聞いたことがあるが、
日本では壺に対してそうした感覚はあまり定着せず、むしろ茶道の影響から宇宙は茶碗の中にあるとみなしたようだ。
これはもしかしたら、大陸中国と島国日本にそれぞれ生まれ根付いた、大地の広さから生まれた空間感覚の違いかもしれない。
日本で壺の中に別世界やユートピアがあるという童話や昔話はあまり聞いたことが無い。
多くの壺や花瓶を求め、その都度それが持つ美しさに癒されているが、
壺はやきものの中で一番場所を取るものだから、いつも置き場所に困る。
自分の作ったものは「壺屋敷」のコラムで書いたとおりだ。
それでも美しい壺や花瓶を見ると、われを忘れるほどだから、数が増えるほど置き場所がなくなる。
それが良いのか悪いのか判らないが、身近に美しいものがあるということは癒しにはなる。
お盆の間、亀水先生の牙白磁の大型花入に百合のつぼみを挿しておいた。
徐々に花が開花し満開になるまで、数日その周りの空気が清澄な気がして随分癒された。
↓盆休みに作った壺その1
古臭い形の壺は作るまいと思うが、なかなか新しさも出せない。
その2
これも上と同じで、この形に現代性を求めるとすると、
何処をどうすればいいのか戸惑う。
壺にもそれなりの決まりごとがあるから。