記憶
向田邦子のエッセーに「夜中の薔薇」という作品があり、詳細は忘れたが、「童は見たり 野中の薔薇」という童謡の歌詞を、
少女の頃から長い間「夜中の薔薇」と間違って覚え込んでいたというものだったと思う。
もちろんそれだけでなく、彼女らしい癒される話だったはずだが、他の部分は40年程前だから記憶には残っていない。
向田邦子は、日常の小さな出来事を過不足なく短編やエッセーにする才能が格別だったから、若い頃に随分読んでファンを自認していた。
その後は再読の機会が無いままだが、今読んでも作品の力は古びていないと思う。
作家としてこれからという時、夏に台湾で飛行機事故で亡くなり落胆した思い出がある。
彼女のエッセーに、台風が接近するとどこの家も家を守るため家族総出で台風対策をし、
そんな時は子供なりに妙に張り切って楽しかった(?)というくだりの話があり、
私の子供時分も、台風が近づくと家族総出で雨戸の補強をしたりして妙にテンションが上がったので、
懐かしさと共に同じ体験をした親近感のある作品もあった。
向田邦子の作品は、『昭和』という時代の雰囲気を丁寧に描写し、
日本がこころ豊かだった時代の男女関係の機微を描いた短編も多く、また読み直したいと思う。
私にも向田邦子と同じ経験があり、
ペギー葉山の『学生時代』という歌の歌詞で、「夢多かりしあのころの」というところを、
40年近く「夢を駆りしあのころの」と記憶していた。
私の記憶違いは、「学生時代」というのは夢をがむしゃらに追いかける、というイメージから来た間違いと思うが、
中途半端に雑学が身についているから、おそらく松尾芭蕉の「旅に病んで夢は枯野を駆け巡る」あたりから派生した間違いかなと思う。
ある時『学生時代』の歌を聴きながら、ふと「多かりし」ではないかと気付いたのだが、
ひとは一度記憶を頭に擦り込んでそのまま訂正の機会が無いと、ずっと間違った記憶を持ち続けることになる。
そうした記憶違いは多分誰でもあるのだろうが、どこかで赤面する場面はあっても、あまり罪のないことだ。
記憶というと、例の「モリカケ」問題で、頭脳明晰で記憶力も常人とは比較にならない抜群の官僚たちが、
「記憶にございません」と言った時、誰もが「記憶にない」という、他人がどうしても確認できない言葉を悪用し、
狡く逃げていると思ったはずだ。
幼いころから記憶力、読解力が抜群で、かつそれを受験勉強という分野で人並み以上にトレーニングした結果、彼らは難関の官僚に成れただろう。
記憶の片りんすら喪失して「まったく記憶が無い」と厚顔に語る姿は、私たちの日常感覚からいうと、「記憶がない」という嘘で事実を隠ぺいし、
後々ペナルティーが発生しないようにごまかしたとしか映らない。
本人以外は誰もがその有無を確かめることが出来ない個人の「記憶」にかこつけ、
「記憶がない」という嘘を嘘でないと強弁しているに過ぎない。
いまの受験がどういうものか知らないが、少なくとも私たちが体験した受験は、
確実に記憶力の優れた奴が上位を占めることになっていて、生来短距離走と記憶力が弱い私はその分いつも大変だった。
子供ながらに、記憶力という能力も走るのが早いとか、体力(耐力)があるとか、視力がいいと同じで、
それらは持って生まれた体質や資質の違いで、親からの遺伝の要素とその後の伸ばせる環境が大きい要素と思っていた。
いまもその考えは変わってはいないが、記憶力が優れているという才能は、
私には無い才能だけに「身を助ける」才能(芸)の中で一番効果的かとはいつも思う。
長い間、記憶力や集中力という恵まれた能力で、社会の上部に身を置いてきた官僚たちが、
記憶を失くし、傍から事実を指摘されても記憶がよみがえらないなどと言うことがあるはずがない。
記憶を明らかにすることが、自分に不都合だから「記憶がない」とごまかしているだけだ。
私の批判は、単に経験に基づく批判に過ぎないが、市民の生活感覚に充分基づいてはいると思う。
昨今、飲酒運転でひき逃げをした人間が、逮捕されても「人を轢いた記憶がない」などと否認する例をよくニュースで見る。
自己保身の言い訳だろうが、実はもっと自分を危機に追い込んでいるのだということが分かっていないのだろう。
記憶がないという理由で不正がまかり通ったり、罪が軽くなるような場面はあまり例外を作るべきでないが、
記憶の有無だけは他人が証明できないから始末が悪い。
国の指導的立場にいる者たちが、都合が悪くなると「記憶」を持ち出して自己の正当化や隠蔽を図るから、
誰もがその手法をまねるのだろう。
こんなことは昨今話題の子供に対する「道徳教育」云々以前の問題だ。
それにしても「記憶」というまったく便利な言葉で、嘘を重ねる官僚の姿を見ると、
どうしてここまで、日本人が誇るべき資質である『潔さ』を失くしてしまったのだろうと思う。
これもグローバル化という世界的な競争の激化がもたらした結果だとしたら、何処かで歯止めをかける「価値」を生み出さないと、
日本人の貴重な資質がどんどん喪失してしまうと思う。
現実の世界は、世界秩序の頂点にいるアメリカ大統領を引き合いに出すまでもなく、
嘘が堂々とまかり通るのだから、これからますます誰もが右へ倣えになるのだろう。
そのうちに「嘘を言っても、逃げたもの勝ち」などと言う処世訓が出来るかもしれない。
加害者は加害の記憶を早々に忘れ、被害者は被害の記憶を何時までも残すという。
ホロコーストに対するユダヤの人々の記憶の強固さ、中国、朝鮮の人々の侵略に対する記憶の持続性に比べ、
日本人が被害ですら忘れやすい特性を持っているのは、民族的資質だからだろうか。
何時までも「モリカケ」でもあるまいという論評も出ているから、そのうちに誰もが忘れてしまうのだろう。
↓3回目の食器
これは酸化焼成だから右奥の梅鉢などの色がイマイチ。
還元でやるともっとコントラストがはっきりするが、緑釉と一緒に焼いたので酸化にした。
生地が赤土だから緑色も変に深すぎて面白くない。