軽すぎる言葉

お知らせ

子供の頃から調子に乗るとしゃべり過ぎる性格で、「口先男」のはしりのような軽率な子供だったから、

周囲から何度か注意された。

曰く「一度吐いた言葉は呑み込めないから、よく考えてからものを言うように」とか、

「口は災いの元だから、心にないもことはしゃべるな」とか教師に頭を小突かれながら諭された。

痛い思いをした割には、周囲の教えが身についたという実感はない。

今では「舌禍」は資質と思っているが、自分が蒔いた種は自分で刈るしかないと覚悟はしている。

 

 

 

ただ、子供の頃は「男は黙って・・」という時代的雰囲気があったし、それが子供なりに美学と思ったので、

書き言葉にも話し言葉にも結構神経を使った記憶はある。

神経を配り過ぎてか、多感な中学生後期から吃音になってしまい、ずいぶん苦しんだがいつの間にか治ってしまった。

藤沢周平に同じ経験を記したエッセーがあるが、私の場合藤沢周平ほど吃音になった原因がはっきりしている訳ではない。

(彼の場合、担任の先生に対する恐怖心のようだ。まったく、子供というのはデリケートの存在だと思う)

そんな経験もあって「言葉」には割合神経を使うし、本好きになったのは周囲のげんこつの賜物と思っている。

 

 

私が建設業に身を投じた昭和50年代、業界には「口約束」が長い慣行としてあり、かつ重要視されていた。

それゆえ「吐いた言葉」に対する責任が重く、前言をひるがえしたり、曖昧な言い訳をすると完膚なきまで批判され、

一人前の扱いがされなかった。

余分な一言で受注出来そうな仕事を逃す場面も多々あり、「吐いた言葉」に対する責任は誰もが自覚し、

「吐いた言葉」に対し誰もが泣く泣くでもその責任を負っていた。

過去の一時とはいえ貴重な経験が出来た時代だ。

 

 

さて、首相補佐官の礒崎陽輔参議院議員のことだ。

法律を作るという立場にあって、自分たちが作る法律の「安定性」(法は時々の解釈によってその法律の運用を変えてはならないという法の不変性)は、

関係ないという発言が物議を醸している。

その後この発言に対して、本人が「大きな誤解を与えてしまったことを大変申し訳なく思います。私のこの発言を取り消すと共に・・云々」

と謝罪している。

与えた「大きな誤解」が何か、当然ながら語らない。

 

 

この陳腐な大人げない一連の出来事で、私が驚いたのは「吐いた言葉」が取り消せるということだ。

最近は政治の世界でときどき見かける光景だが、「吐いた言葉」を「取り消す」という行為にいつも違和感があった。

「取り消す」ことが可能ならば、誰だって人生上の失敗や後悔はない。

何かの錯覚で思いと逆のことを言ってしまったと気付いた場合に、言い直すということはあろうが、

それは間違いを自ら正し、真意を正確に伝えるために必要な当たり前の対応だろう。

 

 

少なくとも私が育った業界には、「吐いた言葉」が何であれ、取り消すなどと言う都合のいい抜け道はなかった。

後日他者からの批判を受けてその言葉を「取り消す」いい加減さと、

取り消しが可能であるという日本の政治風土(文化風土!!)が分からない。

言葉がどんどん軽くなる時代というのは、人がどんどん軽くなる時代ということだ。

 

 

礒崎自身が「わが国を守るために(集団的自衛権の行使が)必要かどうかが基準だ」と「政治的判断」をしているのであれば、

それはそれで、賛否は別として政治家のポリシーだから認めざるを得ない。

曖昧な法律でもとにかく立法し、早く「危機」に対応できるようにしなければという「現状認識」は、

彼の個別的なものであっても彼の認識であるから。

 

 

だが、「法的安定性は関係ない」と法律を作る立場の者が「作る法律は曖昧、いい加減でもいい」という内容の発言は、

自分の仕事(立法)に対する無責任さを臆面もなく言っていることであり、自分の仕事を自分で侮辱することになる。

法律の文言がどのようにも解釈可能であるならば、政治家や知識人がよく言う「法治国家」という基本すら信用されなくなる。

もの作りの現場で「いい加減なものでもいい」などと言う思いが脳裏をかすめるだけで、いいものが出来ないのは自明だ。

法律だろうが、建築物だろうが、農作物だろう、人作り(子育て)だろうが何であれ変わりはしない。

 

 

 

「選良」のこの議員には「『わが国を守るため』には法的安定性を無視しても、早急に集団的自衛権が行使できるようにしなければならない」という、

彼の現状認識と政治思想に固執してほしかった。

認識の正否は別として、「自分を裏切らない自分」を示すことの方が政治家の「選良」を示すことになる。

この男が自分の思想に殉ずれば、同じ立場の人にとっては大きな力になりえただろうが、

姑息にもこの男は、一番の大舞台で自分の確信を自分で否定した。

自分の首を差し出し大見得を切れば「千両役者」になれたのに、「大根役者」の地金を晒しただけだ。

 

 

国会議員という特権的身分に未練があったのだろうと思われても仕方がないが、

自分の政治思想に確信があればバッチをはずしても政治活動はできるはずだし、

活動を続ければ、何時か政治がこの男を必要とする時代が来るかもしれない。

それくらいの覚悟がなければ、政治に関わるべきではない。

馬鹿らしいと思いながらも私たちが政治家の特権を認めているのは、

その特権によって、政治家に人としての手本を示して欲しいからだ。

 

 

この男が、わが国の安全を脅かすと考えている、例えば中国の政治家は、

文字通り命がけの激烈な権力闘争を経て表舞台に登場している。

おそらく表舞台に立つ一人の政治家の裏には、数十、数百の蹴落とされその後を日陰で存える政治家がいる。

最近の習近平派による江沢民派に対する粛清のニュースなどを見ると、中国政治の闇の深さに言葉も見つからない。

こうした中国の政治家や政治風土を相手に、この男のような学業優秀な官僚上りが太刀打ちできるとはとても思えない。

 

 

政治の究極にある「判断力」、「決断力」の要諦は、業界でよく言う「最後は頭ではなく腹だ」というものだと思う。

頭がいいばかりの政治家が多くなり、その場しのぎと言い訳だけがまかり通る日本になってしまったようだ。

軍事を司る政治(家)がこのざまでは、「中国の脅威」に立ち向かえるわけがない。

軍備拡張を続ける中国に政治が対峙できなければ、戦争という殺し合いで対峙することになる。

だから「骨太」の政治家が求められているのだ。

 

 

新聞やTVで語られる「礒崎批判」は、政治家や評論家、知識人と言われる知的な立場からの批判になっている。

当然そこで展開される論理は、憲法や外交、防衛などとからめた大上段に振りかぶった論理になるが、

日々の生活に追われ、何よりも今日の糧に腐心する<生活者>の目線からこうした現在の政治の姿を批判しなければ、

我々の「生活思想」がまた敗北を繰り返すと思っている。

うまく展開できたとは思わないが、とりあえず。

 

 

(黄茶蕎麦 耳付き花生)

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